たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Memory Check?

2008-10-21 23:42:26 | Weblog
 もし、今の教育制度がもっと本質的だったなら、別の言葉で言うなら、もし、教育というモノが学問を用いて行なわれるモノでなかったなら、学問はもっともっと娯楽化しているだろう。

 よーわ、今の高校などの主要科目、現代文、古典、英語、数学、物理学、化学、生物学、地学、政治経済学、倫理学、日本史、世界史、地理などを勉強する事を強制されないんだとしたら、もっともっと世の中はこれらを娯楽の対象として使うと思う。
 例えば、有機化学の反応式が書いてある服が売れたり、電磁気学の問題を作成して出しあいっこするのが流行ったり、平安時代の年号歌のCDがまさかのミリオンヒットだったり…。
 え?そんなに複雑なもの、誰が娯楽にするかって?麻雀は俺には複雑には思えるけど、はまってるヤツは超はまってるじゃねーか。最近のゲームだって、やたら複雑に思うんだけど…。

 俺は学問が好きだ。そして、科学は好きではないけど、やっていると楽しい。だから、この愛している(笑)学問達が、教育なんかの道具として用いられているのがイヤでたまらない。
 なぜ勉強するの?っと聞かれた時に、なぜサッカーするの?っと聞かれたときと同じように、「楽しいから」っと答える人が世界中で、せめて日本中で多くなる事が、俺のねがいである。

 だから、学問の供給者側、つまり教科教育をしている先生は、基本的にエンターテイナーであってほしいと思うし、俺自身、誰かに学問を教える時は、そうでありたいと思う。変に偉ぶって、教育的になる、おこがましくなる、お節介になる、先生は、ちょっと俺とは合わない。要するに、生徒と先生は対等であって、尊重しあわなきゃねって。
 そうじゃないから、これからを担う大切な人たちが、冷静に考えずに、勉強なんてきらーいってなるんだと思う。先生が学問という道具を使って、教育という安全なくくりの中で、相手を馬鹿にし、偉ぶるからいけないのだ。

 なぜ?なぜ、案外面白いじゃん、学問はっ、っという方向に持っていけない?俺だって、それくらいできるぞ。

 今、この歳(21)になって、成績や学歴がよい人たちは、超単純にわけると、2種類いると思う。「純粋に学問の楽しさに気がついてしまってやめられなくなっている人」と「今の教育制度という鎖に順応して耐えぬいてここまで勝ち抜いた人」である。(ごめんなさい、このページを見ているであろう例外のirizaさん(笑))
 ちなみに今までの俺は、1ミリ前者よりのハーフってとこかな。

 この痛い鎖に身をゆだね、気持ち良くなってしまっている人たちは、俺は正直、すげーっと思う。だって、サッカーでいうなら、サッカーなんて楽しくもなんとも思ってないヤツが、サッカーめちゃめちゃ楽しいヤツと対等に戦ってるんだぜ?
 でも、可哀想に思う。なんで、もっと多角的にモノゴトを解析し、本質を見れないのだろう。確かに社会や制度と個人を同率に論じるべきではないけど、それではダメな今の教育制度と本質を見抜けない点でカワラナイと思う。
 っま、中間の俺が言うのもなんですが(笑)。

 逆に、学問の楽しさにはまりまくっている人たちも、俺は正直、すげーっと思う。こーゆータイプは往々にして、すべての成績が良いわけではない。なのに、それでも過去問を使わなかったり、要領よくやらなかったりする。なんともご立派である。
 でも、ちょっと遺憾にも思う。なんで、もっと他人のことを考えられないのだろう。今、とりあえずはこういう制度になっているのだから、それにムリヤリ順応しろっとは言わないけど、せめて義務は果してほしいと思う。んで、優しさを見せるとすぐにめちゃめちゃ従順になったりもするもんだ。純粋すぎるのも罪なんだよね。
 っま、中間の俺が言うのもなんですが(笑)。

 んなわけで、両者ともに、長所と短所があるわけですが、俺はどっちかっていうなら、学問の楽しさに気がついてるヤツのがイイかな。だって、楽しい分、お特だし、楽しい姿って素晴らしいからね。
 もちろん、両方の長所を持ち合わせている人もいるんだと思う(俺はそーではない)。 

 こんな風に書いといて、俺はどーして勉強しているのか?っという問に、学問が楽しいからっと簡単に答えられない。っま、超スーパー本心を言うと…、
 俺にとっての一番大切なモノを守り、なくさないためには、学問を、特に科学を勉強する事は、必要不可欠なのだ。自分を、自分自身が作った固有な鎖で、縛り付けているという表現が正しいかもしれない。 

 さて、あなたは、なぜ、今、勉強しているんですか??
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Carry On

2008-10-21 00:11:06 | Weblog
 うちの大学で、1番アツイ先生の無事を確認して、ちょっと安心した。休講をしたときに、もう何か変だなっと感じていたけど、やっぱり大変だったみたい。仕事にはまだまだ戻れないみたいだけど、そこに生があるなら、まぁ、上々。

 (これとはあんま関係ないけど、生きているという事実は何事にも変え難い。そこに命があるということほど、重要なことはない。例えその人が、喋る事も意思疎通をする事もできなかったとしても、そこに命が存在しているということは、非常にかけがえのないことなのだ。生命として、生物として、人間として。)

 おそらく、非常にもどかしいんだと思う。夢や理想の固まりみたいな人だから、今、自分自身が動けないで、健康でないということは、現実を背けたくなるほど、ツライのかもしれない。
 そして、そんなことを知ってか、残った者達は、きっと、彼の理想を追いかけようとするのだろう。たかが学部生である俺は0.01%くらいしかそのアツさは受け入れられないけど、少しだけでも伝染させてもらえるなら、0.01%だけ受け入れたいと思う。バトンの一部を分けてもらえたとして、その瞬間にすでに、原型とは変わってしまったとしても、それはそれで新しい一歩なんだって。

 「いつか、変わってしまったとしても、自分だと強く胸に言い聞かせていこう。遠く果てしなく続く空、雨の日もどんな日も、夢だけは捨てちゃいけない。」

 ただただ祈ることしかできない自分は、必死に走っていくつも守って空回りするしかない。それはカッコ悪くてもかまわない。生きている目的は、全然知らない誰か他人のためではないのだから。
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