たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

言動の真意はどこへ?

2008-03-16 04:43:52 | Weblog
 今日は、連続で4コマも授業をした。がー、ノド痛てー。自分の声量の無さが明るみになってしまった。うーん、こんなんで今日はきちんと伝えられたのだろうか。運動方程式は物体の数だけ立てるとか、見通しの効く計算とか、クダラナイ事ではあるけど。

 思うように気持ちが伝えられない時ってのは多々ある。プレゼンの時だとか、気になっている人の前だとか、かなりの本心を言及する時だとか。緊張によって、表現を言葉というモノで支配できなくなってくる。落ち着いて、ゆっくり喋ると直ったりするが、なかなか過ぎ去ってはくれないものだ。
 それは、自分の本心や思いにどこか穴があったんじゃないかっていう不安とそれによって人に嫌われるんじゃないかっという想いがあるからだと思う。本心をきちんとわかってもらえて、それで嫌われるくらいなら、そのほーが良いっというくらいじゃないと、そんな場には来ないだろうし。

 だが、今言った事は「よくよく考えればあったり前のことっ」って場合のみの話である。ギロンや行動というのは、もう少し深い意味をもったりするっと思う。

 ところで、量子力学の世界というのは、確率論的な世界で、ニュートンが作った古典力学の世界を確率論から派生する期待値によって支配する学問である。

 実は、ギロン、だけでなく、話すこと、相手に対する行動もこれと同じような面をもってたりするよーな気がする。特に、深くて脆弱で微妙なコトをする時は。
 つまり、相手に何かを伝えるとき、相手がこのように理解したら悪意であるし、相手がこのように理解したら善意にとるであろうということを、解って行動することがあるということだ。その瞬間、悪意と善意との間の広い境界線上を歩いている。これは、悪意でも善意でもない。
 この期待値を計算してしまうと、悪意か、善意かのどちらかに収束されてしまうが、このままの状態で相手に伝えるという瞬間がとても面白く、量子力学的であると感じる。

 そんなとき、理由はよくわからないが、普段の倍は緊張する。嫌われるという不安以上に、慎重に語る。
 いや、そろそろ確信かなって思ってる読者もいるかもしれないけど、そんなに贅沢な話じゃなくて、こんな事をしなきゃな瞬間や相手にこーゆう確率論的な事をされる瞬間が多いっちゃ多いんだよねー。
 こんなのがあと1年以上続くなら、免疫がついて、普通の緊張はしなくなるんじゃねーかなーって。

 っで、もっと最下層部は、超ひも理論で、語れるのかな?
コメント
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