第四部定義二のように,悪malumが善の否定であるとすれば,悪の確知が十全な認識cognitioであり得るということは分かりました。ただ,第四部定理六六を論理的に裏付けるためには,これだけでは十分ではありません。この定理Propositioでいわれていることのうち,より小なる現在の善bonumよりはより大なる未来の善を欲求するということは,各々の認識が十全な認識であり得るから,より大なる未来の善の否定negatioとなる現在の善が悪とみなされるということも十全な認識であり得るので,この部分は問題ありません。しかし,より小なる現在の悪より小なる未来の悪を欲求するという点については,解決していません。第四部定理六四によれば,悪の認識は十全な認識ではあり得ないのですから,それが理性ratioによって認識されるということはない筈です。であればなぜ理性の導きに従って,より小なる未来の悪をより大なる現在の悪よりも欲求するということができるのでしょうか。この場合,比較の上では未来の小なる悪は善であるといわれなければならないのはその通りですが,小なる悪はそれ自体では悪なのですから,それが理性によって認識されるということは,むしろ論理的に否定されているからです。
これを解決していくために,まず次の点を確認しておきます。
第三部定理九にあるように,僕たちのコナトゥスconatusは,僕たちが事物を十全に認識するcognoscereときにも混乱して認識するときにも,同じように働きます。したがって,より小なる悪の認識とより大なる悪の認識が,同じ条件で僕たちの精神mensのうちに発生するのであれば,僕たちは必ずより小なる悪の方を欲求するのです。第四部定理六六は,第四部定理六五を明らかに受けているのですが,第四部定理六五でいわれていることは,ふたつの善,またふたつの悪が同じ条件の下に与えられる限りでは,理性の導きに従っているか従っていないかということと無関係に僕たちに発生します。ここで理性の導きという条件が付せられているのは,条件が同一でない場合が考慮されているからです。そしてその条件が時間tempusに関係する場合が,第四部定理六六でいわれているのです。このことを踏まえて考察することになります。
敬虔pietasであるということは,聖書が教える通りにあることを意味します。よって,新約聖書が敬虔であることを人びとに教えているのであれば,敬虔である人間がキリスト教徒で,そうではない人間はキリスト教徒ではないということができます。そして実際にスピノザはそう解釈します。よって,極端にいえば異教徒であってもキリスト教徒といい得る人間が現実的に存在するというようにスピノザはいうのです。つまり,イエスがキリストすなわち救世主であるということを肯定しないとしても,実生活の上で敬虔であるならその人はキリスト教徒であり,逆にたとえイエスがキリストであるということを肯定していても,敬虔な生活を送っていないのであれば,その人をキリスト教徒ということはできないというのが,スピノザの基本的な解釈です。
敬虔であるということは,現に神Deusを愛し,また現に隣人を愛するということだけを示すのであって,これは実際のそうした行いによって示されます。ですからある人間がいくら自分は敬虔であるといったとしても,それだけでその人間が敬虔であると断定できるわけではありません。実際にはそうではなくてもそうであるということが人間にはありますし,もっといえば,敬虔とは程遠いような生活を送っていたとしても,自分は敬虔であると思い込むことができるのが人間であるからです。また,神を愛し隣人を愛するということは,たとえば熱心に教会に通うというようなことを意味するのではありません。神を愛し隣人を愛するということは,宗教的なことを,あるいは宗教的なことだけを意味するわけではないからです。熱心に教会に通っても隣人をまったく愛さないというようなことはあり得るのであって,そうした人間のことを敬虔な人間であるということができないのは,ここまでいってきたことからも明らかでしょう。そして敬虔な人間のことをキリスト教徒というのであれば,そのような人間はたとえ熱心に教会に通うとしても,キリスト教徒とはいえないということになるのです。
なので,敬虔であることができる人間というのがどのような人間であるのかが重要です。それがキリスト教徒といわれるからです。
これを解決していくために,まず次の点を確認しておきます。
第三部定理九にあるように,僕たちのコナトゥスconatusは,僕たちが事物を十全に認識するcognoscereときにも混乱して認識するときにも,同じように働きます。したがって,より小なる悪の認識とより大なる悪の認識が,同じ条件で僕たちの精神mensのうちに発生するのであれば,僕たちは必ずより小なる悪の方を欲求するのです。第四部定理六六は,第四部定理六五を明らかに受けているのですが,第四部定理六五でいわれていることは,ふたつの善,またふたつの悪が同じ条件の下に与えられる限りでは,理性の導きに従っているか従っていないかということと無関係に僕たちに発生します。ここで理性の導きという条件が付せられているのは,条件が同一でない場合が考慮されているからです。そしてその条件が時間tempusに関係する場合が,第四部定理六六でいわれているのです。このことを踏まえて考察することになります。
敬虔pietasであるということは,聖書が教える通りにあることを意味します。よって,新約聖書が敬虔であることを人びとに教えているのであれば,敬虔である人間がキリスト教徒で,そうではない人間はキリスト教徒ではないということができます。そして実際にスピノザはそう解釈します。よって,極端にいえば異教徒であってもキリスト教徒といい得る人間が現実的に存在するというようにスピノザはいうのです。つまり,イエスがキリストすなわち救世主であるということを肯定しないとしても,実生活の上で敬虔であるならその人はキリスト教徒であり,逆にたとえイエスがキリストであるということを肯定していても,敬虔な生活を送っていないのであれば,その人をキリスト教徒ということはできないというのが,スピノザの基本的な解釈です。
敬虔であるということは,現に神Deusを愛し,また現に隣人を愛するということだけを示すのであって,これは実際のそうした行いによって示されます。ですからある人間がいくら自分は敬虔であるといったとしても,それだけでその人間が敬虔であると断定できるわけではありません。実際にはそうではなくてもそうであるということが人間にはありますし,もっといえば,敬虔とは程遠いような生活を送っていたとしても,自分は敬虔であると思い込むことができるのが人間であるからです。また,神を愛し隣人を愛するということは,たとえば熱心に教会に通うというようなことを意味するのではありません。神を愛し隣人を愛するということは,宗教的なことを,あるいは宗教的なことだけを意味するわけではないからです。熱心に教会に通っても隣人をまったく愛さないというようなことはあり得るのであって,そうした人間のことを敬虔な人間であるということができないのは,ここまでいってきたことからも明らかでしょう。そして敬虔な人間のことをキリスト教徒というのであれば,そのような人間はたとえ熱心に教会に通うとしても,キリスト教徒とはいえないということになるのです。
なので,敬虔であることができる人間というのがどのような人間であるのかが重要です。それがキリスト教徒といわれるからです。
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