昨日の佐世保記念の決勝。並びは小林‐平原‐鈴木の東日本,伊藤‐久島‐荒井‐井上‐塚本の九州で小川は単騎。
荒井がスタートを取って伊藤の前受け。6番手に小川,7番手に小林で周回。小林は残り3周のホームで早くも上昇開始。バックに入るところで伊藤に並びました。伊藤は引かずに残り2周のホームまで伊藤と小林で併走。誘導が退避するタイミングから両者の先行争いに。うまく小林を外に追いやった伊藤の先行で打鐘。小林がいけないとみた平原が下りてきて荒井の後ろに入り,マークの鈴木も続いて井上はその後ろに。小林は立て直してまた伊藤を叩きにいきましたが,番手の久島の横あたりで一杯に。井上が追い上げて平原の外まで上昇すると,それに合わせて荒井がバックから自力で発進。小林がいたこともあって井上がスムーズに荒井に続き,捲り切ったふたりで直線勝負。自力をを出した荒井が凌いで完全優勝。マークの井上が半車輪差の2着で九州のワンツー。井上が上昇するタイミングで追い掛けた小川が流れ込んで1車身差の3着。
優勝した長崎の荒井崇博選手は7月に佐世保のFⅠを優勝して以来の優勝。GⅢは2021年11月の飛龍賞以来の17勝目。記念競輪は2019年4月の武雄記念以来の15勝目。このレースはライン構成にかなり偏りがありましたので,九州勢が圧倒的に有利。小林が思いのほか頑張りましたが,平原が早い段階でスイッチしていたために,荒井は外から被せられる展開になりませんでした。井上が追い上げてきたタイミングで発進したのがよい判断で,これで荒井と井上の優勝争いに持ち込むことができました。荒井と井上はもう大ベテランといっていいような選手ですが,ベテランならではの巧みさが光ったレースでした。
工藤は現代人ですから,死んだイエスが生き返ったということを比喩的に解するとしても,あるいはオルデンブルクHeinrich Ordenburgのいい方に倣えば,その信条を支えとしなくても,キリスト教徒であることができると考えていたとしても不自然ではありません。これは工藤が寄稿の後半部分でいっていること,すなわち,スピノザは隠れキリスト教徒であったということとも関連しますので,まとめて考察していきます。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,キリスト教徒とはだれのことであるのかということが,オルデンブルクがいっているのとはまったく違った観点から主張されています。キリスト教徒とは,何らかの信条によって支えられている人物のことを指すのではないのです。スピノザはそれを,敬虔pietasであるといういい方で示すことになるのですが,これまでにも何度かいってきたように,スピノザがいう敬虔とは,現実的に存在する人間の信条を意味するのではなく,人間の態度とか行動に関連します。したがって,ある人間が敬虔であるか否かを測る尺度というのは,その人間の精神mens humanaの思惟作用であるよりは,その人間の身体humanum corpusの運動motusであるという側面が強くなっています。これは強くなっているというだけであって,それがすべてであるという意味ではありません。スピノザの主張ではある人間の精神というのはその人間の身体の観念ですから,同一の人間の思惟作用と身体運動の間には,因果関係こそありませんが同一個体ですから,ある人間について敬虔であるという形容が,その人間の身体的運動だけを表現するということはないのです。ただ,スピノザは思惟作用について敬虔というのではなく,身体の運動についてそういうと解しておけば,僕たちには理解しやすいでしょうから,ここでは僕はそのようないい方をします。
スピノザがこのように主張する理由は次のようなものです。これは今回の考察の中でもいっておいたことですが,新約聖書が教えているのは,神Deusを愛することと隣人を愛することのふたつです。このとき,現実的に存在するある人間が,神を愛しまた隣人を愛しているならば,その人は敬虔であるといわれます。これがスピノザがいう敬虔の具体的な意味です。
荒井がスタートを取って伊藤の前受け。6番手に小川,7番手に小林で周回。小林は残り3周のホームで早くも上昇開始。バックに入るところで伊藤に並びました。伊藤は引かずに残り2周のホームまで伊藤と小林で併走。誘導が退避するタイミングから両者の先行争いに。うまく小林を外に追いやった伊藤の先行で打鐘。小林がいけないとみた平原が下りてきて荒井の後ろに入り,マークの鈴木も続いて井上はその後ろに。小林は立て直してまた伊藤を叩きにいきましたが,番手の久島の横あたりで一杯に。井上が追い上げて平原の外まで上昇すると,それに合わせて荒井がバックから自力で発進。小林がいたこともあって井上がスムーズに荒井に続き,捲り切ったふたりで直線勝負。自力をを出した荒井が凌いで完全優勝。マークの井上が半車輪差の2着で九州のワンツー。井上が上昇するタイミングで追い掛けた小川が流れ込んで1車身差の3着。
優勝した長崎の荒井崇博選手は7月に佐世保のFⅠを優勝して以来の優勝。GⅢは2021年11月の飛龍賞以来の17勝目。記念競輪は2019年4月の武雄記念以来の15勝目。このレースはライン構成にかなり偏りがありましたので,九州勢が圧倒的に有利。小林が思いのほか頑張りましたが,平原が早い段階でスイッチしていたために,荒井は外から被せられる展開になりませんでした。井上が追い上げてきたタイミングで発進したのがよい判断で,これで荒井と井上の優勝争いに持ち込むことができました。荒井と井上はもう大ベテランといっていいような選手ですが,ベテランならではの巧みさが光ったレースでした。
工藤は現代人ですから,死んだイエスが生き返ったということを比喩的に解するとしても,あるいはオルデンブルクHeinrich Ordenburgのいい方に倣えば,その信条を支えとしなくても,キリスト教徒であることができると考えていたとしても不自然ではありません。これは工藤が寄稿の後半部分でいっていること,すなわち,スピノザは隠れキリスト教徒であったということとも関連しますので,まとめて考察していきます。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,キリスト教徒とはだれのことであるのかということが,オルデンブルクがいっているのとはまったく違った観点から主張されています。キリスト教徒とは,何らかの信条によって支えられている人物のことを指すのではないのです。スピノザはそれを,敬虔pietasであるといういい方で示すことになるのですが,これまでにも何度かいってきたように,スピノザがいう敬虔とは,現実的に存在する人間の信条を意味するのではなく,人間の態度とか行動に関連します。したがって,ある人間が敬虔であるか否かを測る尺度というのは,その人間の精神mens humanaの思惟作用であるよりは,その人間の身体humanum corpusの運動motusであるという側面が強くなっています。これは強くなっているというだけであって,それがすべてであるという意味ではありません。スピノザの主張ではある人間の精神というのはその人間の身体の観念ですから,同一の人間の思惟作用と身体運動の間には,因果関係こそありませんが同一個体ですから,ある人間について敬虔であるという形容が,その人間の身体的運動だけを表現するということはないのです。ただ,スピノザは思惟作用について敬虔というのではなく,身体の運動についてそういうと解しておけば,僕たちには理解しやすいでしょうから,ここでは僕はそのようないい方をします。
スピノザがこのように主張する理由は次のようなものです。これは今回の考察の中でもいっておいたことですが,新約聖書が教えているのは,神Deusを愛することと隣人を愛することのふたつです。このとき,現実的に存在するある人間が,神を愛しまた隣人を愛しているならば,その人は敬虔であるといわれます。これがスピノザがいう敬虔の具体的な意味です。
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