スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天皇賞(春)&紹介状

2024-04-28 19:21:14 | 中央競馬
 第169回天皇賞(春)。ヒンドゥタイムズが左前脚の歩行のバランスを欠いたために出走取消となって17頭。
 マテンロウオリオンが先頭に。2番手にドゥレッツァで3番手にディープボンド。その後ろにサヴォーナとテーオーロイヤル。2馬身差でサリエラ。7番手にゴールドプリンセスとチャックネイト。9番手にプリュムドール。2馬身差でタスティエーラとシルヴァーソニック。2馬身差でワープスピードとブローザホーン。2馬身差でスマートファントムとスカーフェイス。3馬身差でハピ。最後尾にメイショウブレゲという隊列。1周目の正面にかけて逃げたマテンロウレオがリードを広げていって6馬身くらいに。ディープボンドが単独の2番手となりドゥレッツァは3番手。その後ろがサヴォーナとテーオーロイヤルで併走という隊列に変化。ハピは大きく外に逸走して競走中止。最初の1000mは59秒7のミドルペース。
 3コーナーではマテンロウレオのリードは4馬身くらい。ここからディープボンドが差を詰めていき,その後ろはサヴォーナとドゥレッツァ。さらにテーオーロイヤルがいて,プリュムドールとサリエラ。直線の入口にかけてマテンロウレオ,ディープボンド,テーオーロイヤルで雁行。逃げたマテンロウレオは一杯になり,一旦はディープボンドが先頭に立ちましたが,すぐに外からテーオーロイヤルが前に。そのまま抜け出したテーオーロイヤルが後続を寄せ付けずに快勝。大外から追い込んできたブローザホーンが2馬身差の2着でディープボンドが半馬身差の3着。ディープボンドの内からよく伸びたスマートファントムが半馬身差で4着。
 優勝したテーオーロイヤルは大レース初制覇。一昨年のダイヤモンドステークスが重賞初制覇で天皇賞(春)は3着。秋も走ったのですが昨年は故障があり1年ほど休養。今年のダイヤモンドステークスで重賞2勝目をあげると阪神大賞典も制してここに向かっていました。このレースは菊花賞馬が強いレースなので,ドゥレッツァの方が有力と見ていましたが,ドゥレッツァの菊花賞は異常なレースぶりであったため,自滅というケースも大いに考えられました。その場合は長距離で大きな実績を残しているテーオーロイヤルということになり,安定性から考えても大きく崩れることはないと思われました。つけている着差が,ドゥレッツァ以外の各馬との現状の能力の差そのものであると考えてよいのではないでしょうか。父はリオンディーズ。母の父は第125回を制したマンハッタンカフェ。4代母がバラダの母にあたる同一牝系。ひとつ上の半兄は2021年のみやこステークス,2022年のマーチステークスと帝王賞,2023年のかしわ記念帝王賞を勝っている現役のメイショウハリオ
 騎乗した菱田裕二騎手はデビューから12年1ヶ月で大レース初制覇。管理している岡田稲男調教師は帝王賞以来の大レース4勝目。天皇賞は初勝利。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがスピノザに論文を2冊送り,フッデJohann Huddeの講評を求めたのは,光学に関してフッデが有識者であることを知っていたからです。ところがライプニッツとシュラーGeorg Hermann Schullerの間にはそういった関係はありません。光学に限らずどのような学識に関してもライプニッツはシュラーを有識者と認めていたわけではありません。ライプニッツにとってシュラーと親交を結ぶことが有益であったのは,自身の何らかの学識にとって有益だったからというわけではありません。シュラーがライプニッツにとって有益な情報,とくにスピノザに関する情報を教えてくれる人物であったからです。
                                        
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』ではかなり戯画化されているといえますが,基本的にシュラーの役回りというのはライプニッツの情報屋という位置づけになっています。この位置づけというのは正しいといえると思います。ライプニッツにとってスピノザやフッデは学識に関して対等な話し相手,こういってよければ自身にとって教師ともなれる存在であったのに対し,シュラーはそうではなく,秘書とか小間使いといったような存在に近かったのだと僕は思います。
 ですから,少なくともシュラーと頻繁に書簡でやり取りをして,かつスピノザとも親しい間柄であったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがパリにいたときは,ライプニッツは積極的にシュラーとやり取りしなければならない理由はなかったのだと僕は思いますし,事実としてそうであったろうと推測します。ライプニッツはアムステルダムAmsterdamでシュラーおよびフッデと面会したとナドラーSteven Nadlerは断定していて,ライプニッツとフッデもライプニッツとシュラーもこのときが初対面であったと思われますが,ライプニッツとフッデは互いに相手の人となりをそれなりに理解していたのに対し,ライプニッツとシュラーはそうしたことも知らずに対面したと考えておいた方がいいでしょう。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスが事前にシュラーに対してライプニッツの紹介状を渡していたと思われるという記述がありますが,そうした紹介状がなければ,この時点でシュラーとライプニッツが面会するというのは不自然であったということは,確かな事実であったと思われます。

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