スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産省賞典中山グランドジャンプ&チルンハウスの事情

2024-04-13 20:16:41 | 中央競馬
 第26回中山グランドジャンプ
 ワンダークローバーは2馬身,マイネルグロンは1馬身の不利が発馬でありました。まず先頭に立ったのはビレッジイーグル。2番手にジューンベロシティとギガバッケン。4番手にニシノデイジー。5番手にエコロデュエルとタマモワカムシャ。2馬身差でイロゴトシとフロールシュタット。マイネルグロンが9番手まで巻き返し10番手にダイシンクローバー。2馬身差でポルタフォリオ。2馬身差の最後尾にワンダークローバー。1周目の正面でタマモワカムシャは落馬。その後のコーナーでポルタフォリオとワンダークローバーの2頭はほかの9頭から大きく離されていきました。最初の大竹柵でニシノデイジーが先頭に立ち,4馬身ほどでビレッジイーグル,さらに4馬身ほどでフロールシュタットと,前がばらけました。ニシノデイジーはさらに差を広げていき,2度目の大障害コースでリードは7馬身くらいに。
 向正面に戻ってニシノデイジーのリードは詰まり4馬身くらい。2番手にビレッジイーグルで3番手にイロゴトシ。3馬身差でジューンベロシティが続き5番手にエコロデュエル。マイネルグロンはその後ろ。向正面の半ばでニシノデイジーとビレッジイーグルとイロゴトシが併走に。その後ろは8馬身ほどの差があってジューンベロシティとエコロデュエル。3コーナーではビレッジイーグルとイロゴトシが前に出てニシノデイジーは3番手に後退。外のイロゴトシがビレッジイーグルを振り切り,単独の先頭に立って直線に。一杯でしたがそのままリードを保って優勝。また盛り返してきたニシノデイジーがビレッジイーグルと競り合うところ,外へ外へと切れ込みながらジューンベロシティが追い込んで3馬身差で2着。ビレッジイーグルを競り落としたニシノデイジーが2馬身半差で3着。
 優勝したイロゴトシは昨年の中山グランドジャンプ以来の勝利で大レース2勝目。連覇を達成しました。その後は昨年の10月に東京ハイジャンプを走って6着。今年は平場の特別戦を使ってここに臨みました。断然の人気に推されていたマイネルグロンには東京ハイジャンプで敗れていましたが,中山の長距離戦では初対戦。負かせる可能性が最も高そうなのはこの馬だと思っていました。ただマイネルグロンは道中の進みが悪く,今日は本調子になかったのではないかと思われますので,真の決着がつくのはこれからということになりそうです。父は2015年に東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌでその父がディープインパクトで母がフラワーパーク。母の父はクロフネ
 騎乗した黒岩悠騎手は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース2勝目。管理している牧田和弥調教師は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース2勝目。

 ここではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの事情というのも推測してみます。
 チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザのことを知りました。だからスピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡のいくつかはシュラーを介して交わされています。したがって,チルンハウスはスピノザが死んだということを,シュラーから伝えられたと思われます。スピノザが死んだからチルンハウスとシュラーの関係が途絶えたとは考えにくいので,おそらくその後の状況についてもチルンハウスはシュラーから伝えられていたのではないかと思われます。
                                        
 このことは,『スピノザ往復書簡集Epistolae』の成立事情からそうだったのではないかと僕は推測します。遺稿集Opera Posthumaの編集者たちは,スピノザとの間での書簡を遺稿集に掲載するにあたって,可能であれば当事者にその可否を確認したと思われます。だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間に交わされた書簡の多くは掲載を見送られたのだし,フッデJohann Huddeからスピノザに宛てられた書簡の全ても掲載を見送られ,スピノザからフッデに宛てられた書簡には宛先が掲載されなかったのです。書簡集の編集が進められていたアムステルダムAmsterdamにはチルンハウスはそのときにはいなかったのですが,事情は同じであったライプニッツの意向がある程度は尊重されたということは,チルンハウスにも何らかの確認があったと思われます。書簡を通して容易に連絡が取れたという点では,ライプニッツもチルンハウスも同じであったと思われるからです。逆にいえば,チルンハウスの書簡はそのすべて,あるいはほとんどが遺稿集に掲載されたのは,チルンハウスが掲載されても構わないと考えていたからだろうと僕は推測しています。
 おそらくチルンハウスに連絡を取ったのはシュラーですが,そのシュラーは遺稿集の編集者のひとりでした。ですから,遺稿集の出版の準備が進んでいるということもシュラーからチルンハウスに伝えられていたのだろうと僕は推測します。國分の指摘では,遺稿集が出版されれば元の原稿が破棄されるのはこの当時の原則になっていました。ただし,チルンハウスが所有していたのは手稿で,國分が指摘していることがそのまま妥当するとは限りません。

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