スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感⑱&スピノザの解答

2024-02-16 19:05:56 | NOAH
 天龍の雑感⑰で示したジャンボ・鶴田に対する評価の後で,鶴田はクールでいるようでもプロレスラーとしてのいやらしさも持ち合わせていたと天龍は語っています。とくに,なめられてはいけないという場面ではそれを見せていたとのことです。そのことを天龍は,鶴田のトップとしてのプライドと関連付けて説明しています。いくら自分がトップであるといったところで,そうしたいやらしさがなければ大したことがないと思われてしまうからです。ずっとトップを張っていくためにはそこに何らかの真実,これは相手に対する真実とファンに対しての真実との両方の意味が含まれていると思われますが,その種の真実がなければいけないのです。鶴田は長い間に渡ってトップに君臨し続けたレスラーでしたから,確かにその種の真実があったと天龍はみているのでしょうし,僕もそれには同意します。いい換えれば,ここでいわれているプロレスラーとしてのいやらしさというのは,そのような真実のことを意味していると解してよいのでしょう。
 その後で,鶴田がほかのレスラーと比較したときの最も優れた点について,身体能力をあげています。そしてこのことについて,天龍は面白い説明をしています。もしもプロレスをマラソンにたとえるならば,鶴田は一番だけれども,もしもプロレスを100m走にたとえたときには,鶴田は後ろから数えた方が早いくらいのレスラーであったというものです。要するに鶴田は,ダッシュはそれほど優れていないのだけれども,高いアベレージの試合を長時間にわたって維持することができる選手だったと天龍はいいたいのです。ただファンの中には100mのダッシュをプロレスに求めるという場合もあるので,そういうファンからみれば,鶴田の評価は善戦マンにとどまってしまうだろうというものです。
 天龍がこれを馬場の教えと関連付けて説明していますが,これは正しいのではないかと僕は推測します。小橋建太は自身に対する馬場の指導について語っていますが,馬場自身は選手に対する指導法を体系づけて語っているわけではありません。ただ馬場は,身体の大きなレスラーには大きなレスラーの,小さなレスらーには小さなレスラーのプロレスというものがあって,それぞれに応じて指導方法も変わらなければならないと考えていたように思われるのです。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあるのであれば,その同じ人間の精神のうちにはXの観念の観念idea ideaeもまた存在します。スピノザはこのことを利用して,現実的に存在する人間の確実性certitudoとは何かということを,シンプルに解答します。すなわち,Aという人間が現実的に存在して,もしAの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,Xの十全な観念を観念対象ideatumとした,Xの十全な観念の観念もまたAの精神のうちにあるのだから,少なくともAはXについて確実であることができるというのがそれです。これをスピノザは,現実的に存在する人間はある事柄を知っているなら,自分がその事柄を知っているということも知ることができるのだから,自分がそれを知っているということを確実に知ることができるという仕方で説明します。そしてその人間は,それを知っているということを知っているなら,それを知っていることを疑うことができないでしょう。なので第二部定理四三では,真の観念idea veraを有する人間は自分が真の観念を有していることを疑い得ず,真の観念が観念対象の真理veritasであるということも疑い得ないという主旨のことをいっているのです。ここでスピノザが,単に確実であるというのではなく,疑い得ないといういい方をしているのは,もしかしたら方法論的懐疑doute méthodiqueを念頭に置いてのことかもしれません。この定理Propositioは明らかにデカルトRené Descartesが採用した方法論的懐疑は誤りerrorであるという意味を含んでいるといえるからです。
                                   
 スピノザの説明から理解できるように,ある事柄を知っていればそれを知っているということを知ることができるという関係は,実際は無際限に連鎖していきます。これは,知っているということを知っているのであれば,そのことを知るということもできますし,さらにそのことを知ることもできるという具合に,無際限に連鎖していくということから明白でしょう。つまり,Xの観念とXの観念の観念が同一個体で,同様の仕方で神Deusに帰せられるように,Xの観念の観念とXの観念の観念の観念も同一個体で,やはり同様の仕方で神に帰せられるのであり,こうした関係が思惟の属性Cogitationis attributumのうちでは無際限に連鎖するのです。

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