スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-12&第四部定理三九

2024-07-28 18:56:50 | ポカと妙手etc
 ⑲-11で詳しく検討したように,⑲-10の第2図の後手玉には即詰みはありません。では先手玉はどうかというと,先手玉にも詰みはありません。なので先手は後手玉に詰めろを掛けることが最初の発想として浮かびます。
 ⑲-10の第2図で先手が後手玉を攻めていくとすれば,最初に思い浮かぶのは☗7四銀で,先手の第一感もこの手でした。
                                        
 この手は詰めろなので後手は☖同飛と取る一手です。
 そこで☗6三銀と打つと王手飛車取りが掛かります。逃げ場所はいくつかありますが,結論はどこでも同じなので,ここでは☖7一王と逃げておきます。
 王手飛車をかけたのですから普通は☗7四銀成と飛車を取ることになります。
                                        
 第2図は後手玉に分かりやすい詰めろが掛かっています。ところがこの図は後手の勝ちなのです。この手順中,銀を渡してしまったために,先手玉が即詰みになっているからです。次回はその詰みがどういう手順であるのかをみていきます。その手順が,実際に先手が指した手にも,先手が勝ちとなる手順にも大きく関係してきます。

 スピノザが聖書の有用性に言及したのは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』です。それを國分は善悪を巡る政治的発想といいます。これに対して善悪を巡る倫理的発想があって,スピノザはそのふたつを分けているというのが國分の見方です。この倫理というのは自己の利益suum utilisを基礎とした倫理です。その倫理がどのように規定されているのかを探求していきます。
 スピノザは第四部定理三九で,次のようなことをいいます。
 「人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である」。
 ここでは運動motusと静止quiesの割合ratioということがいわれていますが,これは多数の個物res singularisによって組織される複雑なひとつの個物は,運動と静止の割合が一定であるから,そのひとつの個物の形相formaを維持することができるということです。ですから運動および静止の相互の割合が維持するように努めるconariということと,自己の有esseを維持するように努めるというのは同じことです。すなわちこの定理Propositioは,コナトゥスconatusの維持は善bonumであって阻害は悪malumであるといっているのです。ただしこの定理には真新しいところが含まれています。それはこのコナトゥスの維持および阻害が,個物の現実的本性actualis essentiaという観点からいわれているのではなく,個物を構成する諸部分という観点から言及されているという点です。第二部自然学②要請一から分かるように,人間の身体humanum corpusは多くの個体から組織されているわけですが,その個体というのもひとつの個物であって,各々のコナトゥスを有するのです。
 ここから分かるように,たとえば現実的に存在する人間の身体は各部分から構成されていて,人間の身体には運動と静止の割合というある構成関係があるのであって,この構成関係がその人間の身体のコナトゥスを支えているのです。だからここには,諸部分,諸部分の構成関係,さらに諸部分において作用するコナトゥスという,みっつの水準が含まれている,いい換えればこの定理は,これらみっつの水準から語られているのだと國分は指摘しています。これを殴打と関連付けてみましょう。
コメント
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