スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オランダ王国友好杯&悪の根拠

2024-07-29 19:04:25 | 競輪
 昨晩の別府記念の決勝。並びは中釜‐古性‐浅井の近畿中部,松浦‐岩津の山陽,伊藤‐阿部の九州に松谷で武藤は単騎。
 阿部と古性がスタートを取りにいき,内の阿部が誘導の後ろを確保。伊藤の前受けとなり,4番手に武藤,5番手に中釜,8番手に松浦で周回。残り3周のホームの出口から松浦が上昇開始。バックで中釜の外まで上がると,併走のまま残り2周のホームに戻りました。そこで中釜が引いたので松浦はインを進出。武藤をどかして松谷の後ろに入りました。バックに入るとそのまま伊藤が発進して打鐘。引いた中釜が叩きにいったもののこれは不発。古性が下りて浅井に迎え入れられる形で松浦の後ろに入り,前から伊藤‐阿部‐松谷‐松浦‐古性という隊列に。松谷との車間を開けた松浦がバックから発進。阿部が番手捲りで対応すると阿部マークの松谷が松浦を牽制。松浦はいいスピードだったのですがこの牽制でコーナーで外に浮いてしまいました。番手捲りとなった阿部がそのまま優勝。マークの松谷が4分の3車身差の2着でこのラインのワンツー。松谷と浮いてしまった松浦の間から伸びた古性が4分の3車輪差で3着。
 優勝した大分の阿部将大選手は先月の高知のFⅠ以来の優勝。その直前のミリオンナイトカップ以来となるGⅢ4勝目。記念競輪は4月の高知記念以来となる2勝目。このレースは中釜と伊藤の先行意欲が高そうで,先行争いもありそうなので,それをみる松浦が有利なのではないかとみていました。先行争いとはなりませんでしたが,先行ラインの4番手を取った松浦には悪くない展開。実際に捲れそうな勢いではあったのですが,松谷の牽制が誤算でした。阿部と松谷が連携するというのはたぶん今回が初めてで,この後もないのではないかと思いますが,後ろを回った以上はその仕事をするという松谷の奮闘が,阿部を優勝に導いた面が大きかったように思います。阿部は優勝を量産していますから,これからも注目でしょう。

 たとえば現実的にAという人間が存在していて,Bという人間から殴打されると仮定します。このことによってAの身体corpusを構成する部分の関係が変更されるということが生じるとすれば,AはAのコナトゥスconatusを維持することができないことになります。これは國分が示したみっつの水準からの帰結です。すると,AがBに殴打されることは,Aにとっての悪malumになります。これはBの殴打という行為によってAの構成関係が乱されるという理由によります。これに対して,Bが憎しみodiumに駆られてAを殴打したとあれば,第四部定理五九備考にあるように,Bにとっての悪であるということになります。これは,憎しみに駆られて殴打するというその行為が,Bが有徳的である状態から離れていくことを意味しているからです。
                                   
 このように,殴打という行為は,こうした関係性を離れてそれ自体でみれば,やはり第四部定理五六備考にあるように,virtusであり,善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打に限らず,現実的に存在するすべての人間の身体humanum corpusの所作に妥当します。しかしそうした行為は,このような関係性を含めて考えれば,善にもなるし悪にもなるのです。そしてそれは,たとえば殴打が悪になるという場合に,だれにとっての悪であるとのかということは,それぞれの人間のコナトゥスに応じて,あるいは同じことですが現実的に存在する各々の人間の自己の利益suum utilisに応じて結論付けられなければならないのです。憎しみに駆られてBがAを殴打し,Aが怪我をするということが生じるとすれば,このことはAにとっても悪であるしBにとっても悪であるということになります。しかしそれがなぜAにとっての悪であり,またBにとっての悪であるのかということの根拠は,Aの場合とBの場合では同一であるわけではなく,Aの場合はAの自己の利益に反するから悪であり,Bの場合はBの自己の利益に反するから悪であるといわれなければならないのであって,一般的規則としてそれは悪であるというような観点から結論されるのではありません。だれにとってなぜ悪であるのかということは,それが単一の行為であっても,その行為に関係する個々の人間の利益から測られるのです。
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