スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&唯一

2021-01-18 19:19:57 | 将棋
 岡田美術館で指された昨日の第47期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が18勝,加藤桃子女流三段が6勝。
 岡田美術館の館長による振駒で加藤桃子女流三段の先手となり,里見香奈女流名人のごきげん中飛車。変則的な手順でしたが①-Aに合流。4筋で銀が向い合う形になりました。
                                         
 第1図となり先手は☗5五歩と打ち,後手の飛車を閉じ込めにいきました。この手自体の善悪はともかく,この将棋の展開からはこの手が敗着になりました。
 後手は☖5七歩。第1図で☗5五歩と打ったからには決戦にいくことができなければならない筈ですが,☗6八金寄と逃げ,☖5二金左に☗7九角で5七の歩を狙いにいきました。
 自身は美濃囲いを完成させ,先手の角が窮屈な位置になったこの局面は後手にとっての好機。☖4六角☗同歩☖同飛と進め,☗5七銀に☖4九飛成と龍を作りました。
                                         
 第2図となっては後手が存分に捌けた形。しかも4五の桂取りが残っているため実質的な手番も後手。この応酬で後手が大きくリードを広げた形で,先手は第1図での読みに精度を欠いていたということになるでしょう。
 里見名人が先勝。第二局は24日に指される予定です。

 河合の問い掛けの中心はこの部分,すなわちガリレイGalileo Galileiが1が唯一の無限数だといっていることが,スピノザが神Deusが唯一の実体substantiaであるといっていることの,論拠に重なるのかという点にあったわけです。そして形而上学的な前提には,重なる部分があるということは分かったのです。
 この先を考えるためには,唯一であるということが何を意味するのかをよく理解しておかなければなりません。これは以前にも検討したことがありますが,この考察においては非常に重要なので,改めて確認しておきます。
 スピノザが神は唯一であるというときはもちろん,ガリレイが1が唯一の無限数であるという場合も,この唯一は数としての1を意味するのではないと考えなければなりません。いい換えればこの唯一というのは,ひとつふたつみっつと数え上げることができるということを前提として,その中でひとつであるという意味に解してはならないのです。もしこのことを唯一という語を用いて説明するのであれば,神は唯一無二の存在であるとか,1は唯一無二の性質をもつという意味に解するべきなのです。自然Naturaの中で唯一無二であるといえば,それはたとえば自然のうちで国士無双であるというような意味に解することが可能であって,必ずしも数を意味するわけではないといえるでしょう。
 つまり,スピノザが神は唯一であるというとき,自然のうちに存在する実体はひとつだけであって,それは神であるという意味ではないのです。むしろ神は自然のうちで唯一無二の存在であるということなのです。同様に,ガリレイが1が唯一の無限数であるという場合も,1は,あるいは無限数は,数のうちで唯一の無二の存在であるという意味なのであって,無際限indefinitumの数がある中で,1がただひとつの無限数であるということではないのです。
 スピノザが神は唯一であるということは,このような意味でなければならないのですが,それを論理的に示す場合には,ひとつだけ弱点を抱えていると僕は思っています。というのはこのことを論証するためには,第一部定理五を経由する必要があるからです。実際にスピノザによる第一部定理一四の証明Demonstratioは,この定理Propositioを援用しています。

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