フロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』で働きと目標とを関連付けて説明するとき,それ自体では誤りがあるとはいえません。というか,むしろフロムはスピノザの哲学を正しく解釈しているといえるでしょう。ただその妥当性の再考のときにいったように,スピノザの哲学において目標というものを考察する場合に第三部定理六を援用するときには,注意しておかなければならない点があります。
この定理Propositioは,現実的に存在する個物res singularisはそれ自身の現実的有actuale esseに固執しようと努めるconariといっています。このことはその個物が能動的であるか受動的であるかに関係ありませんが,人間にとっての徳virtusとはその人間にとっての能動actioを意味することになるので,フロムがなしている限定では受動的である場合にもこの定理が成立するということを考慮する必要はありません。したがって,現実的に存在する人間は能動的である限りは自己の有に固執しようと努めるということがフロムがここでいっていることの意味になります。するとあたかも現実的に存在する人間は,自己の有に固執するperseverareことに能動的に努めるということになるようですが,これをそのままの意味で理解してしまうと,誤りに陥る危険性があります。ここで努めるというのは,自主的に努力するということを意味するよりも,そういう傾向があるconariというほどの意味だからです。
ただし,現実的に存在する人間が能動的であるとは,その人間がある結果effectusに対しては十全な原因causa adaequataであるという意味ですから,人間が能動的に自己の有の維持に向けて努力をするといういい方が,全面的に誤りであるといえるわけではありません。人間がある事柄に向かって十全な原因として取り組むということを努力するというのである場合は,まさに人間は自己の有の維持に能動的に努力するということにほかならないからです。ただしこのようにいう場合は,人間が何事かに向けて能動的に立ち向かうことはすべて努力といわれなければならないので,能動的に何事かをなすならそれはそれはすべて努力といわれることになります。つまりこの努力は,自己の有に維持することだけに向けられる努力ではありません。いい換えればこの場合は人間はすべての事柄に努力するということになります。
このようにみれば,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザが知るためには知っていることを知る必要はないというとき,國分がそれを奇妙な言い回しといっていることの意味がよく理解できるのではないでしょうか。國分はこのことをかみ砕いていうなら,何かを確実に知っているなら,そのことだけで確実性certitudoは明らかだから,自分が確実であるということをさらに知る必要はないということであると指摘しています。つまりここでは國分はこのことを,確実性とは何かということと関連させて考えています。つまり真理veritasのしるしsignumというのは観念ideaの確実性ということと同じであると國分は考えているわけで,その点は僕も同意します。ただ確実性そのものについての考察は,『スピノザー読む人の肖像』の中の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の考察で示したばかりですから,僕のこの点に関する見解opinioはここでは省きます。
スピノザは当たり前のことをいっているように思えると國分はいっていますが,同時にここで立ち止まってはいけないのです。僕たちが何か確実なことを知ろうとする過程において,それに照合させればそれが真理であるとされるようなしるしを僕たちが追い求めるとすれば,実は僕たちは確実に知るために,自分がそれを確実に知っているということを知ろうとしているのだということをスピノザはいっているのです。なぜなら,すでに得ている何らかの観念について,真理のしるしに照合させて真理であることを確認するという行為は,自分がその観念について確実であるということを知ろうとすることと同じであるからです。
自分がある事柄を確実に知っているということを知ることができるのは,そのことを確実に知っている場合だけです。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって,真理のしるしを追究するということは,ある事柄を確実に知る前に,自分が確実であるということを知ろうとする営為であるといえます。そのようなことが不可能であるのはいうまでもないでしょう。このような意味において,真理のしるしはあるとすれば真理そのものであって,真理のほかに真理のしるしといえるものはなく,それを知ろうとするのは無駄なことなのです。
この定理Propositioは,現実的に存在する個物res singularisはそれ自身の現実的有actuale esseに固執しようと努めるconariといっています。このことはその個物が能動的であるか受動的であるかに関係ありませんが,人間にとっての徳virtusとはその人間にとっての能動actioを意味することになるので,フロムがなしている限定では受動的である場合にもこの定理が成立するということを考慮する必要はありません。したがって,現実的に存在する人間は能動的である限りは自己の有に固執しようと努めるということがフロムがここでいっていることの意味になります。するとあたかも現実的に存在する人間は,自己の有に固執するperseverareことに能動的に努めるということになるようですが,これをそのままの意味で理解してしまうと,誤りに陥る危険性があります。ここで努めるというのは,自主的に努力するということを意味するよりも,そういう傾向があるconariというほどの意味だからです。
ただし,現実的に存在する人間が能動的であるとは,その人間がある結果effectusに対しては十全な原因causa adaequataであるという意味ですから,人間が能動的に自己の有の維持に向けて努力をするといういい方が,全面的に誤りであるといえるわけではありません。人間がある事柄に向かって十全な原因として取り組むということを努力するというのである場合は,まさに人間は自己の有の維持に能動的に努力するということにほかならないからです。ただしこのようにいう場合は,人間が何事かに向けて能動的に立ち向かうことはすべて努力といわれなければならないので,能動的に何事かをなすならそれはそれはすべて努力といわれることになります。つまりこの努力は,自己の有に維持することだけに向けられる努力ではありません。いい換えればこの場合は人間はすべての事柄に努力するということになります。
このようにみれば,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザが知るためには知っていることを知る必要はないというとき,國分がそれを奇妙な言い回しといっていることの意味がよく理解できるのではないでしょうか。國分はこのことをかみ砕いていうなら,何かを確実に知っているなら,そのことだけで確実性certitudoは明らかだから,自分が確実であるということをさらに知る必要はないということであると指摘しています。つまりここでは國分はこのことを,確実性とは何かということと関連させて考えています。つまり真理veritasのしるしsignumというのは観念ideaの確実性ということと同じであると國分は考えているわけで,その点は僕も同意します。ただ確実性そのものについての考察は,『スピノザー読む人の肖像』の中の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の考察で示したばかりですから,僕のこの点に関する見解opinioはここでは省きます。
スピノザは当たり前のことをいっているように思えると國分はいっていますが,同時にここで立ち止まってはいけないのです。僕たちが何か確実なことを知ろうとする過程において,それに照合させればそれが真理であるとされるようなしるしを僕たちが追い求めるとすれば,実は僕たちは確実に知るために,自分がそれを確実に知っているということを知ろうとしているのだということをスピノザはいっているのです。なぜなら,すでに得ている何らかの観念について,真理のしるしに照合させて真理であることを確認するという行為は,自分がその観念について確実であるということを知ろうとすることと同じであるからです。
自分がある事柄を確実に知っているということを知ることができるのは,そのことを確実に知っている場合だけです。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって,真理のしるしを追究するということは,ある事柄を確実に知る前に,自分が確実であるということを知ろうとする営為であるといえます。そのようなことが不可能であるのはいうまでもないでしょう。このような意味において,真理のしるしはあるとすれば真理そのものであって,真理のほかに真理のしるしといえるものはなく,それを知ろうとするのは無駄なことなのです。