第四部定理五六備考にあるように,自卑abjectioは高慢superbiaよりは容易に矯正され得ます。それは自卑が悲しみtristitiaの一種であり,高慢が喜びlaetitiaの一種であるという点に注意するなら,第四部定理一八から帰結させることができます。ではその第四部定理一八はどのようにして証明されるのでしょうか。
まず第一に,第四部定理四は,人間が現実的に存在するという場合にのみ妥当するのでした。したがって第三部諸感情の定義一でいわれている人間の本性humana naturaは,人間の現実的本性actualis essentiaであることになります。第四部定理一八は,そこで定義されている欲望cupiditasについて言及されているのですから,この定理Propositioでいわれている事柄も,人間が現実的に存在している場合にのみ妥当するということを踏まえておかなければなりません。
次に,人間の現実的本性は,第三部定理七にあるように,自己保存の傾向conatusに合致します。そして,第三部諸感情の定義二により,喜びとはより小なる完全性perfectioへの移行transitioであり,第三部諸感情の定義三により悲しみはより大なる完全性からより小なる完全性への移行です。このとき,第二部定義六に示されているように,完全性とは実在性realitasのことであり,スピノザの哲学における実在性とは力potentiaという観点からみられる限りでの本性であることに注意すれば,喜びは人間の現実的本性に合致し,悲しみは人間の現実的本性に相反するということが理解できます。
したがって,人間が何らかの喜びを感じ,その喜びによって欲望を感じるなら,それはその喜びの感情自体によって促進されることができます。しかし悲しみを感じることによって欲望を感じた場合には,逆に悲しみの感情によってその欲望は阻害されてしまうことになります。ごく単純にえば,人間は喜びは維持しようと欲望しますが,悲しみを維持しようとは欲望しません。これは経験的にも明白だといえるでしょう。
よって悲しみからある欲望が生じるなら,その大きさはそれを感じる人間の現実的本性だけで規定されます。しかし喜びから生じる欲望の大きさは,それに加えて,欲望を促進させる外部の原因からも規定されます。なので条件が同一なら,喜びから生じる欲望は悲しみから生じる欲望より大きいということになるのです・
スピノザのケッテルリンフへの助言は,コレルスJohannes Colerusの伝記の第九節に記されています。そしてこの節の中の,助言のエピソードの直前の部分は,スピノザの言動がキリスト教の教えに反するものではなかったということで占められています。証言者としてのスぺイクがどの程度まで信頼に値するかということを調べるためには,そうした記述の信憑性を考察してみなければなりません。ですからそこに書かれていることを示しておきます。
まず,スピノザは家の夫人,すなわちケッテルリンフや近所の人が産褥についたり病気になったりしたときには,必ず話しかけて慰めたとあります。そのときスピノザは,そうした運命が神Deusによって課せられたのであるから,じっと辛抱するように諭したとされています。
次に,スピノザはスぺイクの子どもたちに対しては,両親のいうことには従って,公の礼拝には参加するよう諭したとあります。
さらに,スぺイクの一家が集会,というのは説教師による説教のことですが,そこから帰ってきたときに,信仰fidesを固くするためにその説教から何を得たのかをしばしば尋ねたとされています。
そしてこのときの説教師であったコルデス,これはコレルスの前任者に該当する説教師ですが,このコルデスという人が博学で誠実であったから,スピノザはとてもコルデスのことを尊敬し,賞賛することもあったと書かれています。
最後に,スピノザはコルデスのことを尊敬していたから,スピノザ自身もときにコルデスの説教を聞きにいくことがあったとされています。そしてその説教を聞き,博学な聖書に対する知識と,その聖書の教えを実生活に生かす方法の的確さを大いに称揚したとあり,スぺイクの一家にも,コルデスの説教を聞き逃さないように勧めたとされています。
すでにいったように,コレルスによる伝記は,スぺイクの家に間借りしていた当時のスピノザが,まるでキリスト教徒となったかのような通念を産み出すことになったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれていました。ナドラーSteven Nadlerがいう,そういう通念を産出した要素というのは,これらの部分にそのすべてが含まれていたと解していいと思います。
まず第一に,第四部定理四は,人間が現実的に存在するという場合にのみ妥当するのでした。したがって第三部諸感情の定義一でいわれている人間の本性humana naturaは,人間の現実的本性actualis essentiaであることになります。第四部定理一八は,そこで定義されている欲望cupiditasについて言及されているのですから,この定理Propositioでいわれている事柄も,人間が現実的に存在している場合にのみ妥当するということを踏まえておかなければなりません。
次に,人間の現実的本性は,第三部定理七にあるように,自己保存の傾向conatusに合致します。そして,第三部諸感情の定義二により,喜びとはより小なる完全性perfectioへの移行transitioであり,第三部諸感情の定義三により悲しみはより大なる完全性からより小なる完全性への移行です。このとき,第二部定義六に示されているように,完全性とは実在性realitasのことであり,スピノザの哲学における実在性とは力potentiaという観点からみられる限りでの本性であることに注意すれば,喜びは人間の現実的本性に合致し,悲しみは人間の現実的本性に相反するということが理解できます。
したがって,人間が何らかの喜びを感じ,その喜びによって欲望を感じるなら,それはその喜びの感情自体によって促進されることができます。しかし悲しみを感じることによって欲望を感じた場合には,逆に悲しみの感情によってその欲望は阻害されてしまうことになります。ごく単純にえば,人間は喜びは維持しようと欲望しますが,悲しみを維持しようとは欲望しません。これは経験的にも明白だといえるでしょう。
よって悲しみからある欲望が生じるなら,その大きさはそれを感じる人間の現実的本性だけで規定されます。しかし喜びから生じる欲望の大きさは,それに加えて,欲望を促進させる外部の原因からも規定されます。なので条件が同一なら,喜びから生じる欲望は悲しみから生じる欲望より大きいということになるのです・
スピノザのケッテルリンフへの助言は,コレルスJohannes Colerusの伝記の第九節に記されています。そしてこの節の中の,助言のエピソードの直前の部分は,スピノザの言動がキリスト教の教えに反するものではなかったということで占められています。証言者としてのスぺイクがどの程度まで信頼に値するかということを調べるためには,そうした記述の信憑性を考察してみなければなりません。ですからそこに書かれていることを示しておきます。
まず,スピノザは家の夫人,すなわちケッテルリンフや近所の人が産褥についたり病気になったりしたときには,必ず話しかけて慰めたとあります。そのときスピノザは,そうした運命が神Deusによって課せられたのであるから,じっと辛抱するように諭したとされています。
次に,スピノザはスぺイクの子どもたちに対しては,両親のいうことには従って,公の礼拝には参加するよう諭したとあります。
さらに,スぺイクの一家が集会,というのは説教師による説教のことですが,そこから帰ってきたときに,信仰fidesを固くするためにその説教から何を得たのかをしばしば尋ねたとされています。
そしてこのときの説教師であったコルデス,これはコレルスの前任者に該当する説教師ですが,このコルデスという人が博学で誠実であったから,スピノザはとてもコルデスのことを尊敬し,賞賛することもあったと書かれています。
最後に,スピノザはコルデスのことを尊敬していたから,スピノザ自身もときにコルデスの説教を聞きにいくことがあったとされています。そしてその説教を聞き,博学な聖書に対する知識と,その聖書の教えを実生活に生かす方法の的確さを大いに称揚したとあり,スぺイクの一家にも,コルデスの説教を聞き逃さないように勧めたとされています。
すでにいったように,コレルスによる伝記は,スぺイクの家に間借りしていた当時のスピノザが,まるでキリスト教徒となったかのような通念を産み出すことになったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれていました。ナドラーSteven Nadlerがいう,そういう通念を産出した要素というのは,これらの部分にそのすべてが含まれていたと解していいと思います。