日本時間で昨夜にドバイのメイダン競馬場で行われたドバイワールドカップデーの前哨戦の2レースに日本馬の遠征がありました。
マハブアルシマールGⅢダート1200mに出走したディオスコリダーは大外枠からやや外に逃げる感じの発馬。3番手の外を追走していきましたが,3コーナーを回ってから騎手の手が動き出すと前を追走できなくなり,勝ち馬からおよそ3馬身4分の3差の7着でした。
この時期の3歳馬が古馬を相手にレースをするというだけで大変なこと。まして海外でのレースとなればなおさらでしょう。前半のペースがさほど速くならなかったからということもあったでしょうが,レースの前半はついていかれたわけですから,十分な内容であったといってもいいように思います。
アルマクトゥームチャレンジラウンド3GⅠダート2000mに出走したラニはほかの馬よりやや遅れ気味の発馬。騎手がずっと手を動かしていましたが,前の集団に取りつくこともなかなかできませんでした。3コーナーを回ってから1頭,直線でも1頭は交わして勝ち馬からおよそ6馬身半差の6着でしたが,レースに参加したとはいえないような内容でした。
このレースも前半はスローペースであったと思われます。それでいてこの内容というのは,馬自身の気持ちの問題もあったでしょうが,スピード不足という印象が否めません。活躍の舞台は長距離戦ということになっていくのではないでしょうか。
伝記の第九節のコレルスJohannes Colerusの記述が,どこまで信用に値するかを探求していきます。ただし,以下に示すのはあくまでも僕の見解です。なのでそれが真実であったと解さないようにしてください。少なくとも,記述に疑念をもち得ることは間違いなく,そのことは証言者としてのスぺイクの信用性に疑義を唱えているフロイデンタールJacob Freudenthalの見方を補強することになると思います。
まず,スピノザが病床についた人たちに,その運命が神Deusによって課せられたのであるからじっと辛抱するように諭したということについては,事実であったとしてもおかしくはありません。ただし,このときにいわれている神というのは,キリスト教における神という意味では,少なくともスピノザの精神のうちではあり得ないことになります。すでに説明したように,スピノザがキリスト教を信仰していたということはないからです。それでもこれが事実であっておかしくないといえるのは,第一部公理三により,一定の原因が与えられれば必然的に結果が生じるということからして,現実的に存在するある人間が病気になるというのは,病気になる原因から生じる必然的な結果であるからです。そしてこのとき,第一部定理一六系三により,神が絶対的に第一の原因であるので,その病気に罹患する原因は神であるということになるでしょう。これをキリスト教徒に通じるようなことばとして変換したとき,その病気は神から課せられた運命であるということになるのです。したがってこの神は,スピノザの精神のうちにおいては第一部定義六でいわれているような神でなければならないのですが,スピノザがこのように発言することは,スピノザ自身の哲学に著しく反するということはありません。一方,スぺイクはキリスト教徒としてこの発言を聞くでしょうから,そこでいわれている神というのを,自分が信仰している神という意味に解することになります。いい換えればスぺイクはこの発言を,キリスト教の教えと調和的なものと解することになります。だからこういうことは事実としてあっても不自然ではありません。
ただ,スピノザが運命ということばを用いるかは微妙だと僕には思えます。
マハブアルシマールGⅢダート1200mに出走したディオスコリダーは大外枠からやや外に逃げる感じの発馬。3番手の外を追走していきましたが,3コーナーを回ってから騎手の手が動き出すと前を追走できなくなり,勝ち馬からおよそ3馬身4分の3差の7着でした。
この時期の3歳馬が古馬を相手にレースをするというだけで大変なこと。まして海外でのレースとなればなおさらでしょう。前半のペースがさほど速くならなかったからということもあったでしょうが,レースの前半はついていかれたわけですから,十分な内容であったといってもいいように思います。
アルマクトゥームチャレンジラウンド3GⅠダート2000mに出走したラニはほかの馬よりやや遅れ気味の発馬。騎手がずっと手を動かしていましたが,前の集団に取りつくこともなかなかできませんでした。3コーナーを回ってから1頭,直線でも1頭は交わして勝ち馬からおよそ6馬身半差の6着でしたが,レースに参加したとはいえないような内容でした。
このレースも前半はスローペースであったと思われます。それでいてこの内容というのは,馬自身の気持ちの問題もあったでしょうが,スピード不足という印象が否めません。活躍の舞台は長距離戦ということになっていくのではないでしょうか。
伝記の第九節のコレルスJohannes Colerusの記述が,どこまで信用に値するかを探求していきます。ただし,以下に示すのはあくまでも僕の見解です。なのでそれが真実であったと解さないようにしてください。少なくとも,記述に疑念をもち得ることは間違いなく,そのことは証言者としてのスぺイクの信用性に疑義を唱えているフロイデンタールJacob Freudenthalの見方を補強することになると思います。
まず,スピノザが病床についた人たちに,その運命が神Deusによって課せられたのであるからじっと辛抱するように諭したということについては,事実であったとしてもおかしくはありません。ただし,このときにいわれている神というのは,キリスト教における神という意味では,少なくともスピノザの精神のうちではあり得ないことになります。すでに説明したように,スピノザがキリスト教を信仰していたということはないからです。それでもこれが事実であっておかしくないといえるのは,第一部公理三により,一定の原因が与えられれば必然的に結果が生じるということからして,現実的に存在するある人間が病気になるというのは,病気になる原因から生じる必然的な結果であるからです。そしてこのとき,第一部定理一六系三により,神が絶対的に第一の原因であるので,その病気に罹患する原因は神であるということになるでしょう。これをキリスト教徒に通じるようなことばとして変換したとき,その病気は神から課せられた運命であるということになるのです。したがってこの神は,スピノザの精神のうちにおいては第一部定義六でいわれているような神でなければならないのですが,スピノザがこのように発言することは,スピノザ自身の哲学に著しく反するということはありません。一方,スぺイクはキリスト教徒としてこの発言を聞くでしょうから,そこでいわれている神というのを,自分が信仰している神という意味に解することになります。いい換えればスぺイクはこの発言を,キリスト教の教えと調和的なものと解することになります。だからこういうことは事実としてあっても不自然ではありません。
ただ,スピノザが運命ということばを用いるかは微妙だと僕には思えます。