スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ロゴージンの謎&実用性

2016-08-29 19:07:26 | 歌・小説
 僕は模倣の欲望という概念は,小説の読解の上では必要としません。ですが亀山郁夫がこの概念を用いて読解している事柄の中に,僕が謎と感じていたことを解く鍵のひとつが含まれていました。
                                     
 エヴゲーニイのムイシュキン観に誤りが含まれていたと僕が解するように,ムイシュキンはナスターシャとアグラーヤを同じように愛していました。これを一対一の関係だけでみれば,どちらとも相思相愛であったといえるでしょう。というかそうであったがゆえに,各々の関係性に問題が生じたというべきです。
 このうち,ナスターシャとムイシュキンの相思相愛の関係には,ムイシュキンにとって別のライバルが存在します。それがロゴージンです。僕が『白痴』を読んだときに謎に思えたのは,このロゴージンンの人物像です。もし僕が作者であるなら,ロゴージンにムイシュキンと正反対の造形を与えたと思います。たとえば長男の悲劇を味わった『こころ』の先生のライバルが,次男の悲劇を味わうことになったKであるというような形においてです。ところが僕にはロゴージンがそういう人間とは思えなかったのです。
 ムイシュキンは,貧乏というのとは違っていますが,公爵であっても裕福ではありません。ロゴージンは明らかな金持ちなので,この点では納得できます。一方,僕がスメルジャコフとムイシュキンには共通性があると解したように,ムイシュキンは性的に潔癖なところがあります。あるいは性的不能者であったかもしれません。それならロゴージンは,性的な意味で熟練していたか,そうでなければセックスアピールが高い男に描かれるのがよかったと思うのです。ですがロゴージンはそんなふうには描写されていません。唯一,ロゴージンの殺人の場面だけ,ムイシュキンとの相違が,象徴的に描かれているだけです。
 これはロゴージンと去勢派の関係を暗示させるために仕方ない造形だったのかもしれません。ですが僕はそれだけでは納得がいきませんでした。だからこれがずっと謎であったのです。

 『知の教科書 スピノザ』は,書籍のジャンルとして哲学書であると同時に啓発書であることを目指しています。つまり単にスピノザの哲学を解説するというより,それを参考にして人としてよい生き方をすることを指南することを少なくとも目標のひとつに置いています。このことはジャレットが例示する説明から明白であると僕には思えます。
 そもそも自身の主著に『エチカ』という命名をしたスピノザ自身が,そういう意図を有していたと解することは可能で,その限りにおいてジャレットはむしろスピノザの本意に沿う形で哲学の解説をしたとみることができます。ジャレットの意図を悪意的に評価すれば,そのような実用書的価値を含ませることによって本がより多く売れると考えたと解することも不可能ではありませんが,著者が自身の著作を多く売りたい,多くの人に読んでほしいと思うのはごく自然な感情の発露であって,仮にそういう意図があったとしてもそれは非難するに値しないことです。むしろスピノザの本意をスピノザの哲学の初心者に分かりやすく伝えるという面からいえば,ジャレットのこの視点はむしろ評価されるべきだといえるでしょう。
 ただ,僕がこの際に注意しなければならないと思うのは,単に実用的価値だけをスピノザの哲学から抽出することは不可能なことだということです。つまり容易な生き方指南としてはスピノザの哲学は適したものではないということです。本書にはその部分の説明が足りていないように僕には感じられるのです。
 僕がいうのは,スピノザの哲学が実用的ではないということではありません。僕自身の経験からいって,かなり実用的な哲学です。ですがそれは,スピノザの哲学を理解するということと別にはあり得ません。逆にスピノザの哲学を理解してしまうと,否応なしにそれが実用的なものとなってしまうという点に,スピノザの哲学の最も大きな特徴があるのです。つまり,スピノザの哲学を理解することなしにスピノザの考え方を生活の中で生かすということはできません。しかしそれを理解するなら,それを生活の中で生かさないようにすることもまたできないのが,スピノザの哲学なのです。
コメント
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