スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理五〇備考&矛盾

2016-08-26 19:16:26 | 哲学
 第三部定理五〇では,どんなものであっても偶然的な理由によって希望spesや不安metusの原因となり得ることが示されていました。このとき,こういう原因によって希望の原因になったり不安の原因になったりするものがどのようにいわれるのかということが,その直後の備考の中で示されています。これはそういうものについて何といわれるかということなのであって,そうした場合の希望ないしは不安が何といわれるのかということではありません。要するに感情affectusについて何かがいわれているのではなく,ある特定の感情の対象となるものについて言及されているということです。ですからそれらが備考の中で言及されることはあっても,諸感情の定義の中に含まれることはないのです。
                                     
 「偶然によって希望あるいは恐怖の原因たる物は善い前兆あるいは悪い前兆と呼ばれる」。
 僕は,スピノザがバリングPieter Ballingに宛てた書簡十七の内容について,『エチカ』と最も関連する定理として第三部定理五〇を示したのでした。その理由はこの備考の冒頭部分からよく理解してもらえるものと思います。バリングにとって子どもの泣き声は,この備考でいうところの悪い前兆であったとスピノザはいっているわけです。
 第四部定理一から分かるように,たとえバリングがスピノザのいったことを理解したとしても,それだけでバリングがかつて経験した事柄を悪い前兆であったと表象することをやめることにはならないでしょう。そのことはスピノザも承知していたと思います。また,この理解は強力な感情を産みだすとは思えないので,第四部定理七により,バリングの悲しみを癒すことにも効果的ではなかったと思います。そう分かっていても,あるいはそう分かっているからこそ,それについて「考えるconcipere」ことをしなければならないのだと僕は思います。

 『スピノザ哲学研究』の記述を僕が解する限り,スピノザは第三部定理九備考では個別的な善bonumについて語り,第四部定理一九では概念notioとしての善と悪malumについて語っていると工藤は理解しています。これは工藤自身が概念としての善悪を前提しているのでなく,スピノザがそう解していると認識しているという意味で重要です。ただ,僕は必ずしもそうは考えません。第四部定理一九は,各人が善を希求し悪を忌避するといっていますが,そのときの善と悪は各人が解する善と悪なのであって,したがってたとえばAの善がBの悪であるという場合を想定していると思われるからです。つまりこの定理は,各人は各人にとっての善を希求して,各人にとっての悪を回避するということだと僕は考えます。少なくともここに普遍的な意味においての,いい換えれば万人に共通するような善と悪が意味されているとは考えません。
 そうはいっても,第三部定理九備考でいわれていることと,第四部定理一九でいわれていることの間に,善と悪に注目するなら,矛盾が示されているということ自体は否定できないと僕にも思えます。たとえば現実的に存在する人間が何かを志向するというとき,前者の考えからすれば善を志向することはできないといわざるを得ません。ですが後者からは必然的に善を志向し,悪を忌避するということが帰結しているからです。ですから,スピノザは原因というのを起成原因causa efficiensと解しますが,仮にその条件を外し,人間に目的条件なるものを設定できるとすれば,前者からは善も悪も目的原因とはなり得ないということが帰結しますが,後者からはむしろ善と悪が人間にとっての目的原因であると結論されるように思うのです。
 しかし,僕はこういう矛盾というのは矛盾のまま放置しておいて構わないと考えます。というのは,善と悪に注目せず,単に現実的に存在する人間の態度について言及されているとすれば,これらは字面上ほどの乖離があるとは思わないからです。とくに僕は,第四部定理一九の方も,現実的に存在する人間が認識する個別的な善と悪について言及されていると解するので,無理に矛盾を解消する必要性を感じないのです。
コメント
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