スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&同義反復

2016-08-27 19:16:51 | 将棋
 昨日の第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 三浦弘行九段の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。ただし△2二銀と上がりました。後手が9筋の位を取って早繰り銀。先手は金矢倉に囲いました。
                                     
 後手が角を打ち込んだ局面。ここで▲4六角と打ったのが後手の読み筋になかった手で,局面も先手がリードしたようです。実戦は△4九角成▲6五歩△7三銀▲6八金引△7五歩▲同歩△8四飛▲6九金引△8六歩▲同歩△9四馬▲8七金△6七馬という進展。後手が歩を突き捨てたのは馬を生還させるため。ところが▲8七金と力強く上がられてみると押さえ込まれて完封負けになりそうなので再び△6七馬と侵入し,後に切っていかざるを得なくなりました。この手順をみても第1図ですでに後手がリードされているのは明らかだと思います。
 先手は早々に攻め合いにいき,もう一歩のところで決めきれなかったので受けに回ることに。攻め合いが望めなくなった後手の投了となりました。
 三浦九段が勝って1勝1敗に。第三局は来月8日です。

 第三部定理九備考では,現実的に存在する人間が希求するものがその人間に善bonumと判断されるといわれています。また,そうはいわれていませんが,現実的に存在する人間が忌避するものはその人間に悪malumと判断されるという意味も実質的に含んでいるといえます。これに対して第四部定理一九の方では,現実的に存在する人間は必然的に善を希求し悪を忌避するといわれているのです。
 善と悪にだけ注目したときに,このような矛盾が『エチカ』の内部に生じてしまう理由は,第四部定義一第四部定義二のうちにあると僕は考えています。これらの定義Definitioにおいては確知するということが人間にとってどのような思惟作用であるのかを確定する決め手がないので,これらふたつの矛盾が統合されてしまう,いい換えれば善と悪についての異なった観点を橋渡ししてしまうような役割を果たしているといえるからです。
 しかし,もし善が何であり悪が何であるのかということをさしあたって無視してしまえば,これらの部分でいわれていることは,人間は現に希求しているものを希求し,現に忌避しているものを忌避するということにほかなりません。これは同義反復ではありますが,現実的に存在する人間がどういう態度,これは思惟作用も含めた上での態度ですが,どういう態度をとるのかという点からは,はっきりとした矛盾があるとはいえません。繰り返しますが僕の解釈では,第四部定理一九でもスピノザは,個人的な認識を超越した概念notioとしての善と悪に言及しているわけではないのですから,そこの部分さえ抹消してしまえば,単なる同義反復にすぎず,矛盾ではないということになるのです。
                                      
 それなのになぜ僕がこのことを考えてみたいのかといえば,スピノザの哲学におけるこの種の矛盾に関する疑問というのは,必ずしも工藤に限定されたようなものではないからです。チャールズ・ジャレットというアメリカ人のスピノザ哲学の研究者は,『知の教科書 スピノザ』の第七章で,工藤があげたのと同じ矛盾を指摘しています。ただしこの本の日本語版では,第四部とあるべきところが第五部となっていますので,その点に注意してください。
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