スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&適切

2016-08-31 20:28:11 | 将棋
 徳島市で指された第57期王位戦七番勝負第五局。
 羽生善治王位の先手で角換り相腰掛銀。後手の木村一基八段から先攻する将棋になりました。これはたぶん先手の序盤の組み方がよくなかったためで,先手としては不本意な展開ではなかったでしょうか。その分だけ局面も後手がリードできていたのではないかと思います。ただ,先手もよく粘り,後手もおそらく最善は逃したところがあった筈で,泥仕合のような終盤になりました。
                                     
 後手が7八に銀を打って先手が金を打って受けた局面。ここで後手が△6九龍と入っておくと先手は受けが難しかったのではないかと思われます。実戦は△8七銀成と取って▲同金に△9七歩成▲同桂△6九角と打ちました。
 ここは観戦していましたが,この角を打った手が詰めろであることが分からず,先手にチャンスが訪れたのではないかと思ったのですが,△6八龍と入る手があって詰めろになっていたようです。先手は▲6二歩と受けて後手は△2一龍と回りました。
                                     
 ▲6二歩と打った手は飛車取りですが龍の横利きを消すので一長一短。ですが△2一龍は単に逃げただけともいえるので,また先手に何かあるかもしれないと思えました。たぶん第2図では2筋に香車を打つ王手をしてどこかに歩を合駒させてから▲3三桂成以下実戦のように進めるのが,勝敗は別としても先手としてはベストを尽くしていたのではないかと思います。しかし単に▲3三桂成△同玉▲4五銀としたため△2八龍と王手で入られ▲8八香と合駒したところで△3四金と受けられました。その局面は後手の勝ちになっているようです。
 木村八段が勝って3勝2敗。第六局は来月12日と13日です。

 『知の教科書 スピノザ』が入門書として適当でないと僕が考えるもうひとつの理由は,ある訳語とそれに関連する部分にあります。
 この本では適切な観念という語句が頻出します。反対の意味で不適切な観念といわれる場合もあります。ジャレットは英語で書いている筈で,その部分の原文が何であるかは僕には不明です。ですがスピノザの哲学の入門書として出版するなら,ジャレットの英語がどんなものであるかに関係なく,これは十全な観念と訳されるべきです。
 もしかしたら訳者は,十全という語句は哲学の初心者には向かないと考えたために,よく用いられる語として適切という訳を与えた可能性はあると思います。ですが十全が駄目であるなら妥当というべきであって,適切はよくありません。おおよそスピノザの哲学を日本語で研究するという場合に,観念を適切と形容することはほとんどない筈だからです。したがってこれを入門書としてスピノザの哲学に入ったならば,間違いなく後に戸惑うこととなるでしょう。これは逆にいえば,すでにスピノザの哲学を知ってからこれを読めば,適切というのを任意に十全と変換して読むことができるので,大した問題にはならないということです。つまり僕はこの訳は,あくまでも入門書としては相応しくないだろうと考えているのであり,訳そのものの正当性を問題視するのではありません。
 スピノザの哲学では,観念の起成原因が観念されるものideatumであるということが否定されるので,第二部定義四により,その内的特徴denominatio intrinsecaによって本性を説明される十全な観念というのは,きわめて重要な用語です。なので入門書においてそれを適切な観念と訳すのは僕にはとくに残念に思えるのです。
 僕は訳者がスピノザの哲学にはあまり詳しくないのではないかと推定しているのですが,その理由がこの訳を選んでいるという点にあります。もしスピノザの哲学をよく知っていて,英語の入門書を邦訳しようとするなら,たぶんこの訳は選ばないと思います。書評で触れた神の自由意志の部分も,神は自由意志で行動するという訳者の思い込みによって生じた誤訳の可能性もあると僕は思っています。
コメント
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