⑫-1の第2図からはまた駒組。▲4八銀△9四歩▲9六歩△7二玉▲1六歩△1四歩▲3七桂△6二金▲2九飛△1二香▲4七銀と進んで第1図に。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/c7/52dbc02227812cfe97c6c0f50d693098.png)
この手順中,1筋を先手から突くのは少しだけ損な意味合いはあったかもしれません。ただ,先手が突かなければ後手から突いてくるでしょうし,そうなれば先手は受けることになるでしょうから,結局のところは同じ局面にと進展したと思われます。
第1図から後手が△6五歩と突いていきました。作戦勝ちの後,指したい手はすべて指したので,このあたりで仕掛けていくのは自然に思います。先手は取らずに▲5七角。ここから△6六歩▲同銀△6四歩というのは不思議な手順で,部分的には後手が一方的に損をしていますが,先手の銀はこの状況だと身動きが取れないので,自陣の傷だけは消しておこうという意図であったと思われます。
先手が▲4五歩と突いたときに後手は△6五桂と跳ねていきました。この手が指したかったために6筋から動いていったということだったのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/eb/6221d1b03a39427684a3dcf53a45c9ea.png)
ここは角が逃げる一手です。そして逃げ場所が直後の進展に大きな影響を与えました。
僕は第二部定義六と第四部定義八のふたつの定義を除けば,『エチカ』に記述されているその他のあらゆる定義が第一部定理八備考二で示されている定義の条件を満たしていると考えているといいました。ですが第四部定義一に関しては,この条件から逸脱しているという見解もあり得るだろうとは思っています。そしてこの場合には,第四部定義二もまた同じ条件から外れているということになるでしょう。
スピノザは第二部定理八の中で,個物の形相的本性essentiae formalesといういい方をしています。この定理全体の文脈からして,ここでいわれる形相的本性が意味するのは,知性の外にあるとみられる限りでの,いい換えれば思惟の様態とはみられない限りでの個物の本性のことでしょう。第二部定理六系では,思惟の様態の事物ではない形相的有という表現がみられますが,そうした形相的有の本性が形相的本性といわれていると考えられます。
第四部定義一や第四部定義二が示しているのは,善にも悪にもそういう形相的本性は存在しないということであると解せます。各々の定義で確知するものといわれるとき,確知というのが何を意味するのかは不明ですが,それが認識されるものであること,すなわち思惟の様態であるということだけは疑い得ません。したがって善も悪も認識される何かなのであって,それを認識する知性を離れて,つまりそうした知性の外に存在することはないということが,これらの定義の意味の中には含まれているといえるからです。つまり善も悪も形相的有としては存在しませんし,形相的有の本性が形相的本性なら,善にも悪にも形相的本性などは存在し得ません。よってたとえば物体としての三角形の本性が存在するようには,善の本性は存在しないし悪の本性も存在しないのです。
したがって,第一部定理八備考二でスピノザが本性というとき,それは形相的本性を意味すると解するなら,これらふたつの定義もまたその条件を逸脱しています。ただ,思惟の様態にも本性はあるのであって,それはこれらの定義に含まれると僕は考えますので,第四部定義一も第四部定義二も,その条件を逸脱してはいないというように僕は考えるのです。
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この手順中,1筋を先手から突くのは少しだけ損な意味合いはあったかもしれません。ただ,先手が突かなければ後手から突いてくるでしょうし,そうなれば先手は受けることになるでしょうから,結局のところは同じ局面にと進展したと思われます。
第1図から後手が△6五歩と突いていきました。作戦勝ちの後,指したい手はすべて指したので,このあたりで仕掛けていくのは自然に思います。先手は取らずに▲5七角。ここから△6六歩▲同銀△6四歩というのは不思議な手順で,部分的には後手が一方的に損をしていますが,先手の銀はこの状況だと身動きが取れないので,自陣の傷だけは消しておこうという意図であったと思われます。
先手が▲4五歩と突いたときに後手は△6五桂と跳ねていきました。この手が指したかったために6筋から動いていったということだったのでしょう。
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ここは角が逃げる一手です。そして逃げ場所が直後の進展に大きな影響を与えました。
僕は第二部定義六と第四部定義八のふたつの定義を除けば,『エチカ』に記述されているその他のあらゆる定義が第一部定理八備考二で示されている定義の条件を満たしていると考えているといいました。ですが第四部定義一に関しては,この条件から逸脱しているという見解もあり得るだろうとは思っています。そしてこの場合には,第四部定義二もまた同じ条件から外れているということになるでしょう。
スピノザは第二部定理八の中で,個物の形相的本性essentiae formalesといういい方をしています。この定理全体の文脈からして,ここでいわれる形相的本性が意味するのは,知性の外にあるとみられる限りでの,いい換えれば思惟の様態とはみられない限りでの個物の本性のことでしょう。第二部定理六系では,思惟の様態の事物ではない形相的有という表現がみられますが,そうした形相的有の本性が形相的本性といわれていると考えられます。
第四部定義一や第四部定義二が示しているのは,善にも悪にもそういう形相的本性は存在しないということであると解せます。各々の定義で確知するものといわれるとき,確知というのが何を意味するのかは不明ですが,それが認識されるものであること,すなわち思惟の様態であるということだけは疑い得ません。したがって善も悪も認識される何かなのであって,それを認識する知性を離れて,つまりそうした知性の外に存在することはないということが,これらの定義の意味の中には含まれているといえるからです。つまり善も悪も形相的有としては存在しませんし,形相的有の本性が形相的本性なら,善にも悪にも形相的本性などは存在し得ません。よってたとえば物体としての三角形の本性が存在するようには,善の本性は存在しないし悪の本性も存在しないのです。
したがって,第一部定理八備考二でスピノザが本性というとき,それは形相的本性を意味すると解するなら,これらふたつの定義もまたその条件を逸脱しています。ただ,思惟の様態にも本性はあるのであって,それはこれらの定義に含まれると僕は考えますので,第四部定義一も第四部定義二も,その条件を逸脱してはいないというように僕は考えるのです。