スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不自然な暴力による死&円の定義

2016-08-13 19:21:16 | 歌・小説
 先生は私に対して,自殺する人は不自然な暴力を使うと言いました。ですが不自然な暴力とで死ぬというなら,普通は私が返したように,殺されるということの方に合致するように僕には思えます。先生が自殺だけを念頭に置いてそのように言ったのは,この時点で自殺,過去のKの自殺だけでなく,将来の自分の自殺のことも考えていたためだとしか思えません。
                                     
 不自然な暴力で死んだということから僕が第一に想起してしまうのは,『罪と罰』におけるマルメラードフの死に方です。マルメラードフは酩酊状態で,ゆっくりとした速度で走っていた馬車に轢かれて死にました。馬車の御者によれば,マルメラードフが通りを横切ろうとしているのが見えたので,大声で注意しながら馬を止めようとしたのだけれども,マルメラードフの方が真直ぐ馬の前に出てきて,勝手に倒れてしまったということです。多くの目撃者がいて,御者のことばを肯定していますから,それが事実であったのでしょう。
 御者はマルメラードフが酩酊状態で前後不覚だったからそういう行動に出たのか,それともわざとそういう行動に出たのかは分からないという主旨のことも言っています。つまりマルメラードフの死というのは,事故死であったのか自殺であったのか分からないというように『罪と罰』の中ではなっています。真相を知っているのはマルメラードフだけであり,しかしマルメラードフはそのまま死んでしまったので,これは分からないとしか結論のしようがありません。僕は自殺であったと読解していますが,事故死だったという読解ももちろん可能でしょう。
 自殺であるか事故死であるのか分からない死。しかし自然死ではないということだけは確かでしょう。だから僕はこの死に方から,不自然な暴力による死というのを連想してしまうのです。

 スピノザは条件①の定義の実例として,再び円の定義に言及しています。この条件を満たすために,円は,一端が固定しもう一端が運動する任意の直線によって描かれる図形であると定義されなければなりません。そしてその定義によって円という図形が有するすべての特質proprietasが帰結するとしています。たとえば事前に固有性という語で説明していた,中心から円周に引かれたすべての直線が等しい図形であるということも,この定義から帰結するとしています。ここで条件①と条件②との間には明確な関係があるということが分かるでしょう。
 一方,こうした円の定義に関しては,次のことに注意しておかなければなりません。
 もしも一端が固定されもう一端が固定されていない直線が現実的に存在するのだとしても,その直線が運動するということは直線の本性のうちに含まれているわけではありません。したがってこの運動の観念は,もし直線それ自体の観念としてみるなら,明らかに混乱した観念です。あるいは実際に直線がそう運動をしたとしても,それを人間の知性が把握するとすれば,第二部定理一七の様式で発生する表象imaginatioなのであって,やはり混乱した観念であることに変わりはありません。つまりこの限りにおいては,知性による事物の十全な認識に資するような定義であるとはいえないのです。
 こうした直線の運動が人間の知性のうちで十全なものとなり得るのは,この運動自体が円の観念と結び付けられる限りにおいてです。いい換えれば原因としての直線の運動の観念と結果としての円の観念が,因果関係の秩序によって結び付けられる限りにおいてです。ここから理解できるのは,スピノザが円の定義として記述しているのは,現実的に存在する直線がある特定の運動をすることによって円という図形が形成されるという意味ではないということです。むしろここでいわれている直線の運動は,物体の運動ではなく任意の思惟作用である,とくに知性が十全な原因causa adaequataとなった,いい換えれば知性の能動actioによる思惟作用であるということになります。この点において,僕は条件①は条件③とも関係していると考えます。これは知性による肯定だからです。
コメント
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