馬場の右手を硬くするための特訓の内容を馬場自身が明かした『王道十六文』。僕が所有しているのは日本図書センターから発刊されている人間の記録というシリーズの第143巻。2002年の11月に発行された第1刷です。
人間の記録というシリーズですから,ほかにも様ざまな分野の著名人のものが出ています。逐一あげていてはきりがありませんが,たとえば将棋からですと升田幸三,大山康晴の両名人があります。
馬場は1999年1月31日に死去。ですから死後の発行ですが,底本は1987年に全日本プロレスの関連会社であるジャイアントサービスから発行された『王道十六文』だそう。僕はそちらはもっていませんから,どの程度の相違があるのかは分かりません。ただ,このシリーズは基本的にこうしたスタイルが採用されているようで,升田の場合は『名人に香車を引いた男』,大山の場合は『人生に勝つ』がやはり底本として採用されています。
1987年のピンチはその年の春。底本はその直後に出ています。ちょうどそれに関連する記述で終っていますから,その後のことに関しては何も触れられていません。また,馬場のあとがきによると,底本は上巻と下巻があったようで,上巻の出版から下巻の出版に時間が掛かったようです。
内容は馬場の自伝。少年時代から始まり,上巻は力道山の死後,日本プロレスでインター王座になるまで。下巻はその後,猪木とのコンビでインタータッグの王者にも就いた頃からです。
馬場の自伝的内容をもつ本は何冊かあり,いずれはそれらについても紹介していくつもりですが,時系列的に網羅されたものとしては,僕はこれが最も優れていると思います。そういうわけでまずはこの本から書評を出したのです。
肯定命題が積極的なものであり,否定命題が消極的なものであるとは結論できません。一方,真の命題が積極的なものであり,偽の命題が消極的なものであると結論することもできません。いい換えれば,真の観念あるいは真理が積極的なものであり,誤った観念あるいは虚偽ないし誤謬が消極的なものであるとも結論することはできないのです。つまり,何が積極的であり,また何が消極的であるかを帰結させるのは,命題でいうならば命題文自体に含意されている内容であるということになります。また,観念でいうならば,その観念の形相ないしは本性であるということになるでしょう。
したがって,ここではまず,知性のうちにある観念があって,その観念が真であるということを前提してしまいます。これは命題文に置き換えれば,たとえばAに関するある命題があって,それが真の命題であるということを前提するということです。そしてこの真の観念が,観念対象ideatumについて,どのような事柄を包含しているのか,より具体的にいうならば,それが観念対象ideatumの限定を包含するのかしないのかということに注目すれば,積極的といい得る観念がどのようなものであり,また消極的といわれなければならない観念がどのようなものであるのかが,理解できることになるでしょう。いうまでもなく,もしもある真の観念のうちに,観念対象ideatumの限定が含まれているならば,その観念は消極的であるといわれなければなりません。あるいは少なくとも,それは積極的な観念であるとみなすことはできません。しかしもしもそれが包含されてはいないのであれば,それは消極的な観念であるということはないでしょうし,直ちに積極的な観念であるとまではみなせないにしても,そうではあり得るということになります。
なお,ここで積極的とか消極的と僕がいっているのは,観念そのものに関してではありません。観念対象ideatumに関してそのようにいっています。このことは文脈からご理解いただけるものと思いますが,積極的な観念とか消極的な観念といういい方は,そう記述するのが自然であるとはいえ,やや紛らわしい面があるかもしれませんので,一応は注意しておきます。
人間の記録というシリーズですから,ほかにも様ざまな分野の著名人のものが出ています。逐一あげていてはきりがありませんが,たとえば将棋からですと升田幸三,大山康晴の両名人があります。
馬場は1999年1月31日に死去。ですから死後の発行ですが,底本は1987年に全日本プロレスの関連会社であるジャイアントサービスから発行された『王道十六文』だそう。僕はそちらはもっていませんから,どの程度の相違があるのかは分かりません。ただ,このシリーズは基本的にこうしたスタイルが採用されているようで,升田の場合は『名人に香車を引いた男』,大山の場合は『人生に勝つ』がやはり底本として採用されています。
1987年のピンチはその年の春。底本はその直後に出ています。ちょうどそれに関連する記述で終っていますから,その後のことに関しては何も触れられていません。また,馬場のあとがきによると,底本は上巻と下巻があったようで,上巻の出版から下巻の出版に時間が掛かったようです。
内容は馬場の自伝。少年時代から始まり,上巻は力道山の死後,日本プロレスでインター王座になるまで。下巻はその後,猪木とのコンビでインタータッグの王者にも就いた頃からです。
馬場の自伝的内容をもつ本は何冊かあり,いずれはそれらについても紹介していくつもりですが,時系列的に網羅されたものとしては,僕はこれが最も優れていると思います。そういうわけでまずはこの本から書評を出したのです。
肯定命題が積極的なものであり,否定命題が消極的なものであるとは結論できません。一方,真の命題が積極的なものであり,偽の命題が消極的なものであると結論することもできません。いい換えれば,真の観念あるいは真理が積極的なものであり,誤った観念あるいは虚偽ないし誤謬が消極的なものであるとも結論することはできないのです。つまり,何が積極的であり,また何が消極的であるかを帰結させるのは,命題でいうならば命題文自体に含意されている内容であるということになります。また,観念でいうならば,その観念の形相ないしは本性であるということになるでしょう。
したがって,ここではまず,知性のうちにある観念があって,その観念が真であるということを前提してしまいます。これは命題文に置き換えれば,たとえばAに関するある命題があって,それが真の命題であるということを前提するということです。そしてこの真の観念が,観念対象ideatumについて,どのような事柄を包含しているのか,より具体的にいうならば,それが観念対象ideatumの限定を包含するのかしないのかということに注目すれば,積極的といい得る観念がどのようなものであり,また消極的といわれなければならない観念がどのようなものであるのかが,理解できることになるでしょう。いうまでもなく,もしもある真の観念のうちに,観念対象ideatumの限定が含まれているならば,その観念は消極的であるといわれなければなりません。あるいは少なくとも,それは積極的な観念であるとみなすことはできません。しかしもしもそれが包含されてはいないのであれば,それは消極的な観念であるということはないでしょうし,直ちに積極的な観念であるとまではみなせないにしても,そうではあり得るということになります。
なお,ここで積極的とか消極的と僕がいっているのは,観念そのものに関してではありません。観念対象ideatumに関してそのようにいっています。このことは文脈からご理解いただけるものと思いますが,積極的な観念とか消極的な観念といういい方は,そう記述するのが自然であるとはいえ,やや紛らわしい面があるかもしれませんので,一応は注意しておきます。