スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

経済的自由&善と否定

2013-08-24 19:25:32 | 哲学
 スピノザにとって哲学する自由が重大であったことは間違いないと思います。しかし,スピノザの精神のうちに自由の概念が芽生えたとき,それは経済的自由という観点であったのではないかと僕が類推するのにも理由があります。
 スピノザの父は,ポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れてオランダに渡ってきました。これが遅くとも1625年。スピノザの誕生は1632年でした。父の名はミカエルといい,商人として生計を立てていました。貿易商です。この当時のオランダのユダヤ人共同体には,あちらこちらからユダヤ人が集まっていたため,貧富の差が激しかったようなのですが,ミカエルのようにポルトガルやスペイン,フランスなどから渡ってきたユダヤ人は商人が多く,富裕層が多かったようです。これらに関して詳しくは『スピノザ ある哲学者の人生』をお読みください。
                         
 ミカエルは1654年,スピノザが21歳のときに死にました。それでスピノザは,弟と共に父の会社を継ぐことになりました。その2年後にスピノザはユダヤ教会から破門を宣告されています。この破門は宗教的な意味を有するだけではありません。ユダヤ人共同体からの追放を意味します。したがってわずか2年あまりのことになるのですが,スピノザは確かに商売,貿易に携わっていました。商人にとって経済的な自由が保持されているか否かは死活問題です。このゆえに僕は,スピノザにとって自由の概念は,まず経済的自由として発生した可能性があると思うのです。実際,スピノザと日本を並びたてたプロパガンダからも窺えるように,当時は必ずしも経済的自由が十分に確保されていたともいい難いように思われるからです。スピノザの日本への言及が肯定的に書かれていることと,それは好対照をなしているといえないでしょうか。
 スピノザが会社経営に携わったことと,破門とは,無関係とはいえないかもしれません。商売仲間はユダヤ人だけではなかったからです。

 ここでいう変化の意味に注意した上で,変化と限定を同じ意味に解します。つまりそれが受動である限り,たとえその活動能力を増大させるような変化が現実的に存在するある個物res singularisに生じるとき,それはそのres singularisが限定を受けているということだと解するということです。すると限定は常に否定のうちに含まれているのですから,この場合にもそのres singularisは否定されていると解さなければなりません。
 たとえば,あるres singularisであるXによって,同じ属性の別のres singularisであるYの活動能力が増大したとしましょう。僕はこの場合にも,YはXによって限定されていると理解しています。したがってそれはXがYを否定しているという意味でもなければならないのです。
 Yの活動能力の増大は,Yが小なる完全性から大なる完全性に移行することと同義であるというのが僕の解釈です。つまり第三部諸感情の定義二によりそれはYの喜びです。その喜びがYによって意識されるならば,第四部定理八によって善といわれます。そして第四部定義一により,YがYにとって有益であると認識するものを,Yは善であると判断するでしょう。つまりこの例でいえば,YはXのことを,Y自身にとって善であると認識することになります。つまりYにとっての善が,Yを否定しているという結論が導かれるのです。
 この点に関しては不可解な思いを抱かれる方がいるだろうと思います。ただここではそれに対して弁明はしません。現在の考察にとってはそれは不要であるからです。ただ,僕がひとつだけ注意をしておいてほしいと願うのは,スピノザの哲学において善悪というのが,普遍的な概念を意味するのではなくて,ある認識内容を意味するという点です。少なくとも受動によってあるものが善と判断される場合に関しては,同一の人間にとっても普遍性を少しももちません。これは第三部定理五一から明らかです。つまりこの例の場合には,YはXを善なるものと認識しますが,別のときには悪と認識するかもしれません。Yは別のときには,Xによって活動能力を減少させられる可能性が確実にあるからです。
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