次男の悲劇によって実家から勘当されたKに同居を勧めたとき,Kに対する先生の優越感があったのは間違いないと思います。ただ,このときに先生が説得しなければならなかったのは,Kだけではありませんでした。先生が下宿していた家の奥さんが,先生がKと同居することに難色を示したからです。つまり先生はこの奥さんのことも説得しなければなりませんでした。

奥さんといっていますが,実質的な家主です。夫は軍人で,日清戦争のときに戦死。妻と一人娘が遺族として残されました。ほかに下女がひとりいたのですが,無人で寂しいからと,先生を下宿させることになったという経緯がありました。
下宿屋ならば下宿人が増えて困ることはありません。しかし商売ではないので,よした方がいいというのが,この奥さんが最初に先生に示した拒絶の理由でした。しかし先生は,Kは世話の焼ける人間ではないからと取り合いません。すると奥さんは,気心の知れない人と同居するのが嫌だと言い出します。ただ,元々は先生だって同様ですから,これはおかしな理屈です。先生がそれを口に出すと,今度は先生のためにならないと言います。先生がそれはなぜかと問うと,苦笑するだけで答えません。理屈の上では先生の方が筋が通っていますから,先生はこの反対を押し切って,Kと同居します。
奥さんの拒絶の理由は,先生には理解できなかっただけで,はっきりしていたといえるでしょう。理由は一人娘。この娘は後に先生と結婚することになりますが,かなり美人に描かれています。そういう美人が住んでいるところに,若い男がふたりで同居すればおかしなことになると,奥さんには手に取るように分かっていたのです。
もちろん奥さんは,最終的にKが自殺してしまうなどとはつゆほども考えていなかったでしょう。ただ,何らかの悪い結果がもたらされることになることをよく理解していたのです。少なくともこのとき,人の心がどういうものであるのかということについて,奥さんの方が先生よりもよく心得ていたのだといわなければなりません。
限定ではない否定というのがどういうものであるのかが明らかになったのであれば,すでにそのことのうちに,積極的といわれ得る要素を構成するような否定negatioは存在しないということが含まれているといえます。これは,スピノザが何に関して積極的といっているのかということから明白であると僕は考えます。
第一部定理二六証明でスピノザが積極的といっているのは,神の決定に関してです。一方,神Deusが絶対に無限absolute infinitumと定義されなければならず,自己の類において無限であると定義されたならば不十分であるとされる理由というのは,後者の場合には神の本性essentiaのうちに限定determinatioは含まれないけれども否定は含まれる,あるいは含まれると考えるconcipereことが不可能ではなくなるからなのです。つまり神の本性のうちには,単に限定が含まれていないというだけでは十分とはいえず,一切の否定が含まれていないのでなければならないのです。これが第一部定義六説明の意味であるといえます。つまり,一切の否定がその本性のうちには含まれ得ないものの決定determinatioに関して,それが積極的であるといわれているのだと理解しなければなりません。これでみれば,どんな否定のうちにも,それを積極的であるとみなすことができるような要素が含まれることはあり得ないということが明らかであると思います。
したがって,神の決定から離れて,一般的な意味において積極的という語句を用いるためのひとつの条件がここにはっきりとしたといえます。すなわちある命題があったときに,その命題が否定的要素を伴うならば,それは積極的な言明であるとみなすことはできません。なお,ここで積極的ということばが用いられる場合の命題文との関係について説明したときに触れたように,この命題が真の命題であるということを僕が前提しているということには留意しておいてください。
ある命題が真の命題であり,かつそれが否定的要素を伴っているというのは,僕の理解では大きくふたつの場合に分けられます。ひとつはその命題文自体が否定形であるという場合です。単純にいえば,XはYではないという命題が真の命題であるという場合がこれに該当するといえます。

奥さんといっていますが,実質的な家主です。夫は軍人で,日清戦争のときに戦死。妻と一人娘が遺族として残されました。ほかに下女がひとりいたのですが,無人で寂しいからと,先生を下宿させることになったという経緯がありました。
下宿屋ならば下宿人が増えて困ることはありません。しかし商売ではないので,よした方がいいというのが,この奥さんが最初に先生に示した拒絶の理由でした。しかし先生は,Kは世話の焼ける人間ではないからと取り合いません。すると奥さんは,気心の知れない人と同居するのが嫌だと言い出します。ただ,元々は先生だって同様ですから,これはおかしな理屈です。先生がそれを口に出すと,今度は先生のためにならないと言います。先生がそれはなぜかと問うと,苦笑するだけで答えません。理屈の上では先生の方が筋が通っていますから,先生はこの反対を押し切って,Kと同居します。
奥さんの拒絶の理由は,先生には理解できなかっただけで,はっきりしていたといえるでしょう。理由は一人娘。この娘は後に先生と結婚することになりますが,かなり美人に描かれています。そういう美人が住んでいるところに,若い男がふたりで同居すればおかしなことになると,奥さんには手に取るように分かっていたのです。
もちろん奥さんは,最終的にKが自殺してしまうなどとはつゆほども考えていなかったでしょう。ただ,何らかの悪い結果がもたらされることになることをよく理解していたのです。少なくともこのとき,人の心がどういうものであるのかということについて,奥さんの方が先生よりもよく心得ていたのだといわなければなりません。
限定ではない否定というのがどういうものであるのかが明らかになったのであれば,すでにそのことのうちに,積極的といわれ得る要素を構成するような否定negatioは存在しないということが含まれているといえます。これは,スピノザが何に関して積極的といっているのかということから明白であると僕は考えます。
第一部定理二六証明でスピノザが積極的といっているのは,神の決定に関してです。一方,神Deusが絶対に無限absolute infinitumと定義されなければならず,自己の類において無限であると定義されたならば不十分であるとされる理由というのは,後者の場合には神の本性essentiaのうちに限定determinatioは含まれないけれども否定は含まれる,あるいは含まれると考えるconcipereことが不可能ではなくなるからなのです。つまり神の本性のうちには,単に限定が含まれていないというだけでは十分とはいえず,一切の否定が含まれていないのでなければならないのです。これが第一部定義六説明の意味であるといえます。つまり,一切の否定がその本性のうちには含まれ得ないものの決定determinatioに関して,それが積極的であるといわれているのだと理解しなければなりません。これでみれば,どんな否定のうちにも,それを積極的であるとみなすことができるような要素が含まれることはあり得ないということが明らかであると思います。
したがって,神の決定から離れて,一般的な意味において積極的という語句を用いるためのひとつの条件がここにはっきりとしたといえます。すなわちある命題があったときに,その命題が否定的要素を伴うならば,それは積極的な言明であるとみなすことはできません。なお,ここで積極的ということばが用いられる場合の命題文との関係について説明したときに触れたように,この命題が真の命題であるということを僕が前提しているということには留意しておいてください。
ある命題が真の命題であり,かつそれが否定的要素を伴っているというのは,僕の理解では大きくふたつの場合に分けられます。ひとつはその命題文自体が否定形であるという場合です。単純にいえば,XはYではないという命題が真の命題であるという場合がこれに該当するといえます。