スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水戸黄門賞&自分の身体

2012-11-12 18:30:32 | 競輪
 東日本大震災以降長らく開催不能状態にあった取手競輪場は今年の10月22日にようやく再開。2開催目が記念競輪となり,今日の決勝を迎えました。並びは平原-武田-長塚-芦沢の関東,川村-伊藤の近畿中部,菅原-小野-三宅の西国。
 前受けした菅原の外に川村,さらにその外に平原となったのが残り2周のホーム。そのまま平原が誘導を追い抜き先頭に。早めに引いた菅原が巻き返していくと平原も発進して先行争い。ホームの入口で小野は外に浮いてしまい,出口で菅原も一杯になり平原の突っ張り先行に。バックから川村が捲っていきましたが武田が先に番手発進。武田の後ろから長塚がよく迫りましたが,残して武田の優勝。長塚が2着,芦沢も3着に続いて地元勢が上位独占。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は8月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝。記念競輪はその直前の松戸記念以来でGⅢは節目の20勝目。地元となる当地の記念は2006年2008年に優勝していて3勝目になります。ここは平原が頑張ってくれました。むしろそのわりには長塚に差を詰められたという印象で,完全優勝ではありましたが絶好調といえるほどの状態ではなかったのかもしれません。

 これですでに第二部定理一二の新しい意味が『エチカ』の中で成立しているということが明らかになったと考えることができます。のみならず,人間の精神が現実的に存在する外部の物体すなわち神の延長の属性の個物に関しては,十全に認識することが不可能であるとするなら,むしろ現実的に存在する人間の精神による自分自身の身体の内部に起こることの認識は,必然的に混乱した認識であるということになるでしょう。すでに紹介したように,上野修の解釈の中にこのことが含まれているのかどうかは不明なのですが,この結論はむしろその解釈に近付いた結論であるということになります。そしてこの場合には,第二部定理一二に記述されている知覚というのを,文字通りに概念と知覚を分節した上での知覚であると判断することが可能であるということにもなります。
 ただ,現実に存在する身体の中に起こることの観念というのは,たとえそれが第二部定理九の仕方によって説明されなければならないのだとしても,その身体の外部にある現実的に存在する物体の観念とは異なるということもまた事実です。そこでさらに,この結論を強化する要素を『エチカ』のうちからあげておきます。
 第二部定理一九は,現実的に存在する人間の精神がいかなる条件のもとに自分の身体を現実的に存在するものとして認識するのかを示しています。そして第二部定理二七は,そうした仕方による自分の身体の認識が十全な認識ではないということを示しています。いい換えれば現実的に存在する人間は,自分の身体が現実的に存在するということに関しては,これを必然的に混乱して認識するということになります。すなわち現実的に存在する人間の精神を構成する観念のうちには,現実的に存在する自分の身体の十全な観念は存在しないということになるのです。
 ここで第二部定理四〇の4つの意味に注目すれば,人間の精神のうちにある現実的に存在する自分の身体の観念を原因として発生するいかなる観念も,混乱した観念であるということが帰結します。身体の中に起こることの原因の一部を身体が構成するという前提ですから,その観念もまた混乱した観念であるということになるでしょう。
コメント
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