スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&対象の原因の十全性

2012-11-01 18:32:04 | 将棋
 金沢市で指された第25期竜王戦七番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。先手が9筋の位を取った関係から,後手が先攻する将棋になりました。
                         
 2六に浮いた飛車で6筋の突き捨てを払った局面。後手は△2七角と打ち込みました。先手は逃げずに▲7六飛。これだと△4九角成とするほかありません。先手は▲7四歩と突き出しましたが,これが厳しくてどうやら先手が優位に立っているようです。桂馬を逃げておく手はあったでしょうが△6五金。よって▲7三歩成△7六金▲8二とと飛車の取り合いに。▲6五角の王手金取りを防いで△2六飛と打ったのですが先手は▲7一飛。
                         
 再び▲6五角が発生していて,打ち合った飛車の働きにもはっきりと差があるように思えますから,ここは先手がかなりよさそう。この後,真直ぐに攻め合うような展開となり,10手ほどで先手の勝ちになりました。
 渡辺竜王が連勝。第三局は来週で8日と9日です。

 もうひとつは,この系に導入されている限りでの原因の十全性ということの意味に関係します。
 どんな観念も,それが神のうちにある限りでは十全であるというのは第二部定理七系の意味そのものです。なので,たとえ無限知性という観点を前提としたところで,対象ideatumの観念もその対象ideatumの中に起こることの観念も,それだけでみれば原因の十全性は確保されているといえます。これは原因の十全性と観念の十全性との間には,欠くことができない関係性があるということから明らかであるといえるでしょう。
 しかしここに平行論的観点を導入し,形相的にみられる限りでの対象ideatumとその対象ideatumの中に起こることとの関係だけで考えるならば,この場合には原因の十全性が導入されているとはいえないということになります。むしろ第二部定理九系の消極的意味というのは,その対象ideatumに関してはこの観点が導入されていないからこそ成立するという側面があるのです。もちろんそれは,その対象ideatumがその中に起こることに対して,十全な原因であるということを全面的に否定するものではありません。しかし部分的には否定するものであり,そのゆえに,対象ideatumがその中に起こることに対して部分的原因であるという場合にも成立するということになっているからです。
 また,この第二部定理九系の消極的意味が成立するということ自体は,それこそその対象ideatumの中に何事かが起こるという言明自体の中に,その対象ideatumの実在が前提されているということからも明らかであるといえます。すなわちあるものが存在しなければそのものの中には何事であれ生じようがありません。もちろんあるものがあれば,そのものの中には必然的に何事かが生じるということにはならないかもしれませんが,現在の考察との関連では,このことの証明は不要でしょう。重要なのは,あるものの中に何かが生じることの観念があるためには,そのあるものの観念があるのでなければならないということです。そしてこのことは,たとえば人間の精神のうちにある混乱した観念の場合にも同様でなければなりませんから,それ以上の説明は不要でしょう。
コメント
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