スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&第二部定理一一系の新しい意味

2012-11-24 19:47:44 | 将棋
 宮崎県都城市の霧島ファクトリーガーデンで10月6日に指された第34期女流王将戦三番勝負第一局は,今月10日に放映されました。対戦成績は里見香奈女流王将が5勝,中村真梨花女流二段が1勝。
 振駒で中村二段の先手でノーマル四間飛車。里見女流王将は居飛車穴熊。先手が待って後手に仕掛けさせる将棋でしたが,これはあまりよくなかったようで,後手に抑え込まれそうに。駒損ながらやや強引に捌いて後手陣に食いついていく展開となりました。
                         
 6五にいた銀が歩を取って進んだところ。ここは△7八飛ないしは△6八飛と打ってすぐに攻め合いを目指すのがよかったようですが,△4二歩と受けました。そこで▲5三桂成と桂馬の方を成ったのが攻めを繋ぐ好手。後手はそこで△7八飛と攻め合いにいきました。これには▲3七銀左が形ですが▲4七銀直としたのも受けの好手で,ここでは△5八とを許さないのが最善だったよう。後手は△5七ととこちらに寄りましたが,先手は1筋の位が大きく玉が広い形。放置して▲4二成桂。△4七とにはさすがに▲同金ですが△4六歩をまた手抜いて▲3ニ成桂。△同金▲2二桂成△同金に▲3一銀と引掛けて,どうやら先手の一手勝ちがはっきりしました。
                         
 実戦はこの後,最速の寄せを逃したのではないかと思えますが,詰めろを繋いで先手が勝っています。
 中村二段が先勝。これがタイトル戦での初勝利でした。

 こうした観点から,第二部定理一一系の意味というのは,以下に示すようなものであると理解しなければなりません。
 神が人間精神の本性を構成する限りである観念をもつといわれるとき,これはその人間の精神がその観念を有しているという意味です。ただしだからといってこの観念は,この人間の精神をそれだけでみた場合には,十全な観念であるとみなすことはできません。むしろ十全な観念の場合もあるし,混乱した観念の場合もあるという意味です。いい換えれば,人間精神の本性を構成する限りでの神というのは,その人間の精神の本性を構成するだけの神という意味ではなく,それ単独でか,あるいはほかのものの観念を有することによってかの,いずれかの場合の神ということになります。
 そしてとくに,神が人間精神と同時にほかのものの観念をも有する限りにおいてある観念をもつといわれるのなら,その場合にはこの人間の精神はその混乱した観念を有するということになります。したがって,今まではこの系の意味というのを,前半部分は人間の精神が十全な観念を有する場合の神との関連付け方で,後半部分は人間の精神が混乱した観念を有する場合の神との関連付け方というように理解していたのですが,これからは,前半部分はある人間の精神が何らかの事物を認識するという場合の神との関連付け方であり,後半部分はその人間の精神がとくにある事物を混乱して認識する場合の,神との関連付け方というようにこの系を理解するということになります。
 僕は第二部定理一二の意味から第二部定理一二の新しい意味への理解の変化を,僕自身の転向ということばで表現しましたが,正確にいえばこの転向は三つ組であるということになります。すなわち第一に第二部定理一二の意味から第二部定理一二の新しい意味への転向。第二に第二部定理九系の意味から第二部定理九系の消極的意味への転向。そして第二部定理一一系の意味から第二部定理一一系の新しい意味への転向です。
 なお,ここでは説明されるということをどう理解するのかということが,限りでということの理解と同じくらい重要な要素を占めると僕は考えていますが,今はこれについてはスルーします。
コメント
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