広島記念はひろしまピースカップというタイトルの下での開催。広島らしいいい名称だと思います。今日,決勝(動画)が争われました。
中国は石丸ー小林ー西田で折り合い,このラインの前受け。打鐘で平原選手が叩くと,城戸崎選手と村上選手も続いて石丸選手は7番手。ホームから村上選手がかまして出ようとしましたが,平原選手の番手の神山選手の牽制に遭い,3番手を外で併走する形に。バックから石丸選手も捲っていきましたが,これも車間を開けた神山選手がうまく牽制。開いた平原選手との間に手島選手が突っ込んでいきましたが,神山選手は余裕があったようで直線は外を伸びて抜き返し,優勝となりました。終始このライン追走の形になった城戸崎選手が平原選手と手島選手の中を割って2着に届き,手島選手は3着まで。
優勝した栃木の神山雄一郎選手は昨年11月の松山記念以来の記念競輪優勝で,これが記念競輪93勝目。今日は平原選手の頑張りもありますが,きっちりと番手の仕事をこなしてのもので立派。難しいかもしれませんが,ぜひ記念競輪100勝を目指してほしいものです。
竜王戦七番勝負第六局は後手の佐藤二冠が2手目△3二金。昨年の第六局と第七局で指された手。渡辺竜王は敗れた第六局のように5筋位取り中飛車にいきました。直接的に咎めにいくならこれが最善の筈でその意気やよし。しかし後手も中飛車に回り,おおよそ前例のない,構想力が問われるような将棋に進展しています。
まず,この両立し得ない感情と,心情の動揺との関係を少し考えてみたいと思います。
今,ある人間Aがいて,この人間のうちで,カレーライスへの愛とラーメンへの愛が両立し得ない状況になっていると仮定してみます。いい換えれば,そうした相反する感情がAのうちに生じていると仮定するわけです。
このふたつの感情はともに愛という感情です。したがって当然のことながら,それは反対感情ではありません。よって,ここでの考え方としては,この場合には心情の動揺は生じていないということになります。
実をいいますと,正直なところ,僕にはここのところがよく分からないのです。というのは,こうした相反する感情が成立している場合には,必然的に心情の動揺が生じていると考えても構わないように思えるからです。実際,スピノザは心情の動揺に関して,相反する感情ということばを用いて説明していますので,そう考えてもいいとは思います。しかし,心情の動揺を説明する場合には,スピノザはことごとく反対感情によってこれを説明するのです。ここで心情の動揺を,相反する感情が生じ,かつそれらが反対感情であるという場合に限定したのはそうした理由に依拠しています。
いずれにしても,この差異自体は,スピノザの感情論の解釈にとって,決定的な亀裂にはならないと思います。したがってここではあくまでも心情の動揺を上述の意味に理解しますが,相反する感情が生じるときには心情の動揺が生じているというように,心情の動揺をさらに広い意味で解釈することも一理あると僕は思いますので,そのように考えても構いません。
中国は石丸ー小林ー西田で折り合い,このラインの前受け。打鐘で平原選手が叩くと,城戸崎選手と村上選手も続いて石丸選手は7番手。ホームから村上選手がかまして出ようとしましたが,平原選手の番手の神山選手の牽制に遭い,3番手を外で併走する形に。バックから石丸選手も捲っていきましたが,これも車間を開けた神山選手がうまく牽制。開いた平原選手との間に手島選手が突っ込んでいきましたが,神山選手は余裕があったようで直線は外を伸びて抜き返し,優勝となりました。終始このライン追走の形になった城戸崎選手が平原選手と手島選手の中を割って2着に届き,手島選手は3着まで。
優勝した栃木の神山雄一郎選手は昨年11月の松山記念以来の記念競輪優勝で,これが記念競輪93勝目。今日は平原選手の頑張りもありますが,きっちりと番手の仕事をこなしてのもので立派。難しいかもしれませんが,ぜひ記念競輪100勝を目指してほしいものです。
竜王戦七番勝負第六局は後手の佐藤二冠が2手目△3二金。昨年の第六局と第七局で指された手。渡辺竜王は敗れた第六局のように5筋位取り中飛車にいきました。直接的に咎めにいくならこれが最善の筈でその意気やよし。しかし後手も中飛車に回り,おおよそ前例のない,構想力が問われるような将棋に進展しています。
まず,この両立し得ない感情と,心情の動揺との関係を少し考えてみたいと思います。
今,ある人間Aがいて,この人間のうちで,カレーライスへの愛とラーメンへの愛が両立し得ない状況になっていると仮定してみます。いい換えれば,そうした相反する感情がAのうちに生じていると仮定するわけです。
このふたつの感情はともに愛という感情です。したがって当然のことながら,それは反対感情ではありません。よって,ここでの考え方としては,この場合には心情の動揺は生じていないということになります。
実をいいますと,正直なところ,僕にはここのところがよく分からないのです。というのは,こうした相反する感情が成立している場合には,必然的に心情の動揺が生じていると考えても構わないように思えるからです。実際,スピノザは心情の動揺に関して,相反する感情ということばを用いて説明していますので,そう考えてもいいとは思います。しかし,心情の動揺を説明する場合には,スピノザはことごとく反対感情によってこれを説明するのです。ここで心情の動揺を,相反する感情が生じ,かつそれらが反対感情であるという場合に限定したのはそうした理由に依拠しています。
いずれにしても,この差異自体は,スピノザの感情論の解釈にとって,決定的な亀裂にはならないと思います。したがってここではあくまでも心情の動揺を上述の意味に理解しますが,相反する感情が生じるときには心情の動揺が生じているというように,心情の動揺をさらに広い意味で解釈することも一理あると僕は思いますので,そのように考えても構いません。