三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

桐生城跡(柄杓山城)に行って来ました(群馬)。

2020-03-16 14:53:22 | 城郭群馬1
2020年3月12日(木)に桐生城跡に行って来ました、桐生駅からおりひめバスで城山入口のバス停へ。

バス停脇にありました、案内板です、女子高校前のバス停からも歩ける距離でしたね、帰りはバスの時刻の関係でそこまで歩きました、取り合えず城山入口から舗装の林道を上り日枝神社のコースを歩きました。

林道を上り駐車場まで、奥左側に案内図がありました、まだ舗装道路が続きますね。

案内板1此れからもう少しで桐生城跡。

案内板2・・・今右下、少し上がれば分岐・・・左側へ城の案内図(縄張り図は此れだけでしたね案内は無い)・・・私は北郭方面へ行きそこないました残念ですが(悔しい)・・・多分堀切から竪堀脇から下るのでしょうが?。

桐生市文化財桐生柄杓山城資料の縄張り図です(縄張り図を頂きました、ありがとうございました)、やはり2・3曲輪の脇から北郭へ入れるのでしたね、でも道が悪いので余りお勧めでないみたいですね注意しましょうね。

此処が分岐ですね、直進し右脇から漸く山道へ入ります、左側は土塁みたいに積み上げた土砂の作業場?・・・お城を作るの?。

作業場横の山道を少し登れば本格的な山道に入りました。

山道を進み鞍部へ右側は?、左側が桐生城(柄杓山城)の三の丸への入り口の尾根ですね。

このお城は連格式で三の丸・二の丸・本丸・・・脇に北郭等が有りますが・・・でも居館は本丸側下の山裾向こう側になります、お城は藤原姓足利系佐野氏一族の桐生氏が築城、観応元年1350年頃?、戦国期は北条・上杉らに従い群馬太田金山城の由良氏と抗争、元亀4年1573年由良成繁が攻め桐生親綱は佐野へ逃亡、以後由良氏の居城(北条方)、天正18年1590年廃城。

分岐の尾根を左側へ、すぐに堀切で区切られた三の丸が現れます、右横は竪堀ですね、ぞくぞくしますね・・・西搦め手口です。

堀切です、右側が三の丸です、道は山の向こう側へ回り込みますね。

堀切の底道を進みます、正面は竪堀、右側に山道が変わりますね、右側が三の丸で横矢ですね。

しばらく三の丸脇の道が続きますね、横矢が続くわけです。

三の丸切れ目は大きく堀切られ左右には竪堀です、道が右側に正面が二の丸です、よく見ると左側に入れそうですね・・・・多分竪堀上側を下り下の曲輪方向が北曲輪・・・東搦め手方面でしょう・・・ルートから外れるので危険が伴いますね。

三の丸の虎口から見た二の丸方面、この後三の丸へ・・・中は手入れが無く意外と細い。

二の丸脇の道です。

二の丸と本丸の堀切です、横は竪堀です。

これは二の丸を戻り三の丸との堀切ですが、藪があり見ずらいですね。

二の丸から見た本丸前の堀切と本丸虎口、手前の木が根事倒れて下の堀切を見ずらくしているのです。

本丸の虎口です、小さな枡形?、回り込んでいますね。

本丸の虎口上から見た二の丸との堀切です・・・・此処からは良く見えますね、左側から来るわけです。

すぐ小さな削平地がありこの奥が本丸です、回り込みますね。

本丸ですね、回り込みますね、虎口は向こう側です。

本丸脇を回り込みますが、この右脇下にも帯曲輪が有るみたいでしたね・・・上から見ると削平が見れますが降りる道は?。

本丸脇を回り込み木々が切れてきました、桐生市内側へ来ました。

これは土が崩れない様・・・、見晴らしが良いよう木々が切り払われています。

本丸です、今日は誰にもあわず・・・、桜の時期は名所なのかな?。

桐生柄杓山城の立派な碑があります。

本丸から見た桐生市内方面です、この下が日枝神社居館方面となります、此処は詰めの城なのでしょう、右側のもう一つ右側の山が吾妻山側ですね。

本丸の北東側?も下側に削平地が見られます・・・居りませんが。

本丸から日枝神社へ下ります、急な斜面の坂道です。

急な斜面を下り降りると段々の削平地が見られます、この辺からが居館・・・桐生館でしょうかネ?。

少し下側に社がありました、まだ日枝神社まで少し距離がありますね。

この辺りも削平地で向こう側は切岸みたいですね。

日枝神社脇に降りました、神社脇に楠の巨木が見られました・・・幹回り3-5位の立派なものですね。

日枝神社から少し離れて楠に囲まれた風情があるり、桐生氏にゆかりのある神社です。

日枝神社(右下)と柄杓山です、社は右上の緑の林あたりですかネ・・・・やはり山城は遺構が残されて見ごたえが十分にありますね。

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