2022年12月2日(金)岩殿観音の大イチョウを見て周辺も見て回りました。

岩殿山正法寺(岩殿観音)は養老2年(718)開山の古刹で江戸期までは門前町で賑わっていたそうです、明治の廃仏毀釈によりその賑わいが無くなったとか。

参道には屋号が付いた家並みが・・・・。

参道の始まりは九十九川の惣門橋からですね、右側方面に足利基氏の塁跡が在ります・・・後程に。

参道は直線で正面が仁王門その奥が岩殿観音堂、左側奥に大イチョウが見えますね。

参道の途中左側の奥(大東文化大学脇)判官塚があります、もともとは大学の敷地内に在ったみたいですが、学校を作るので移設したみたいです、判官・・・源義経では無く、鎌倉殿13人の比企能員(この人も役名が判官)の塚、比企一族はこの辺りの豪族ですから。

参道右側には熊野神社。

熊野神社です・・・・この参道は谷戸ですね、山間の谷間を三方に囲まれ、前が川、昔では防御性が高い土地ですね。

岩殿山正法寺の仁王門です、運慶の仁王像が在ったそうですが、松山城の合戦のおり焼かれたそうです、松山城合戦・・永禄5年(1562)武田信玄・北条氏康の連合軍(5万数千人)が上杉憲勝の松山城を攻める、上杉輝虎(謙信)が石戸城まで救援に来ていたが間に合わず開城した有名な合戦ですね。

仁王門を後ろの急坂な石段。

石段を上り鐘楼脇から見た参道。

鐘楼・・・鐘撞堂。

岩殿観音本堂です、岩山を削り落とした削平した場所です、坂東三十三ケ所第十番札所、鎌倉時代には北条正子の祈願所の一つです。

岩殿観音本堂と大イチョウ。

岩殿観音堂脇の岩場・・・四国札所本尊刻石仏群。

参道入口の側にある弁天沼・・・・坂上田村麻呂の伝説が残る沼とか。

沼の辺にあるお墓。

鎌倉時代からの塔婆・・・・板石塔婆(上の説明板にある)。

沼の横の道を下るとありました、足利基氏の塁跡の碑が・・・。

奥に説明板が・・・此処が?。

説明板・・・・この後は現在ゴルフ場ですね、足利基氏は尊氏の次男で初代鎌倉公方、下野の芳賀高貞が反乱、この地で破った時に布陣した場所です(短期間の戦でこの地の豪族の館を使用とか)、九十九川を前にした高台ですね。

上はゴルフ場でわからず土塁堀?跡・・・・・遺跡としては???。

岩殿山正法寺(岩殿観音)は養老2年(718)開山の古刹で江戸期までは門前町で賑わっていたそうです、明治の廃仏毀釈によりその賑わいが無くなったとか。

参道には屋号が付いた家並みが・・・・。

参道の始まりは九十九川の惣門橋からですね、右側方面に足利基氏の塁跡が在ります・・・後程に。

参道は直線で正面が仁王門その奥が岩殿観音堂、左側奥に大イチョウが見えますね。

参道の途中左側の奥(大東文化大学脇)判官塚があります、もともとは大学の敷地内に在ったみたいですが、学校を作るので移設したみたいです、判官・・・源義経では無く、鎌倉殿13人の比企能員(この人も役名が判官)の塚、比企一族はこの辺りの豪族ですから。

参道右側には熊野神社。

熊野神社です・・・・この参道は谷戸ですね、山間の谷間を三方に囲まれ、前が川、昔では防御性が高い土地ですね。

岩殿山正法寺の仁王門です、運慶の仁王像が在ったそうですが、松山城の合戦のおり焼かれたそうです、松山城合戦・・永禄5年(1562)武田信玄・北条氏康の連合軍(5万数千人)が上杉憲勝の松山城を攻める、上杉輝虎(謙信)が石戸城まで救援に来ていたが間に合わず開城した有名な合戦ですね。

仁王門を後ろの急坂な石段。

石段を上り鐘楼脇から見た参道。

鐘楼・・・鐘撞堂。

岩殿観音本堂です、岩山を削り落とした削平した場所です、坂東三十三ケ所第十番札所、鎌倉時代には北条正子の祈願所の一つです。

岩殿観音本堂と大イチョウ。

岩殿観音堂脇の岩場・・・四国札所本尊刻石仏群。

参道入口の側にある弁天沼・・・・坂上田村麻呂の伝説が残る沼とか。

沼の辺にあるお墓。

鎌倉時代からの塔婆・・・・板石塔婆(上の説明板にある)。

沼の横の道を下るとありました、足利基氏の塁跡の碑が・・・。

奥に説明板が・・・此処が?。

説明板・・・・この後は現在ゴルフ場ですね、足利基氏は尊氏の次男で初代鎌倉公方、下野の芳賀高貞が反乱、この地で破った時に布陣した場所です(短期間の戦でこの地の豪族の館を使用とか)、九十九川を前にした高台ですね。

上はゴルフ場でわからず土塁堀?跡・・・・・遺跡としては???。