浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

素敵にだまして

2007-06-09 00:24:25 | 日記
ほぼ日刊イトイ新聞(関係ないけど今、矢沢永吉と糸井重里の就職についての対談をやってて、やっぱすごいね、永ちゃんは)の糸井重里のコラムにこんなことが書いてあった。(うろおぼえ)

----------------
たとえば墓碑に
「かなり頭のいい人だった。何をやっても失敗せず、だまされることが無かった」
と書いてある人と、
「かなり馬鹿だった。何度も失敗し、何度もだまされた」
と書いてある人がいたら、後者のほうも結構幸せな人生なんじゃないか。
----------------

僕もそう思う。どうもバブル崩壊後「だまされないこと」「失敗しないこと」が偉くて、だまされるやつ、失敗するやつはアホだ、という風潮があるような気がする。たとえば「○○にはだまされない方法」とか「失敗しない○○選び」なんてタイトルの本が多いような気がしません?

いいじゃん、だまされたって、失敗したって。死にはしないよ。

だまされる、ってことは負けじゃあないと思うんだよね。

ほら、どんな手品見ても「うわ!すごい!」って思える人のほうが幸せでしょ?

仕事でも恋愛でもそうだけど、僕の基本は「だまされてもいいけどだまさない」ということなんだよ。

さすがに年齢を重ねてくると「うーん、この人は嘘をついてるな」とか「何か隠してるな」って気づくこともある。

でもそこでね、問い詰めたって意味が無い。人をだましたい人なんていないわけだから、彼や彼女がそういうことを言う理由ってのが何かあるんだろう。

言いたいことを言えばいいし、言いたくないことは言わなければいい。話したいってのなら聞くけどさ、なんも変わらないことのほうが多いし。僕のほうは言いたいこと言うけど、聞かれたことには答える。

恋愛もそう。

最近の恋愛で思うのは終わったとしても「よっしゃ、俺は後ろめたいことは一切しなかったな」ということ。毎度毎度「うん、ベストは尽くしたな」と思って終わる。

大学出てからはそうだね。

もちろん見せたかった景色、食べさせたかったおいしいもの、そんな感じの心残りはあるけどさ、それでもなお、「うん、ベストは尽くした」って終わる。「明日死ぬかのように愛せ、永遠を生きるかのように学べ」ってことだよ。

大学の頃はそうじゃなかった。嘘もついたし後ろめたいこともした(自慢じゃないけど浮気は今まで人生で一度もしたことがない)。

あんな無駄な時間と無駄なお金を使ったんならもっとあの子に時間とお金を使ってあげればよかったじゃないか、と思うこともあった。うーん、傷つけたよなぁと思うこともあった。

あの頃ってたぶん恋愛を「勝負」だとか「損得」だと思ってたんだよな。「俺はこんくらい待ったんだからそのお詫びをしてほしい」とか「これだけのことを与えたんだから君も与えてくれ」とか。そうじゃあないんだよな、大事なことは。

ギブ&テイク、って言葉があるけどそれは「与えたらもらえる」って言う意味じゃないんだよね。「もらえるかどうかわからないけどまずは与えろ」って言う意味なんだよ。

恋愛が終わることはまぁ何度もあるんだろうけど、一時の楽しさを手に入れるために自分と相手の尊厳まで損なうことは無い。そりゃ割に合わない、と最近は思ってる。どんな理由があれ自分だけの幸せのために人を踏んづけちゃいけない。

勝ち負けとか、損得とかそういうことより大事なものが確実にある。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

走ることでしか解決しないこともある。

2007-06-03 01:00:55 | 日記
村上春樹が好きなわけだけど、村上春樹のエッセイを読んでいて「30過ぎて走り出して走るのってなんて楽しいんだろうと思った」、というせりふがあってそれがなんか頭に残っていた。

多分、みんなそうなんだろうけど尊敬する人ととか好きな人が自分と同じ年の頃に何をやっていたのか、ということを考えるよね。坂本竜馬は31歳の時には海援隊創設、そして大政奉還。すげ。ロバート・デ・ニーロはゴッドファーザーパート2に出演。星新一は作家デビュー。

…まずいな、31ってのは結構転機なんじゃないか。ま、いいか。

村上春樹はたぶん28とか29の時に「そうだ、小説を書こう」と神宮球場の外野席で思い立って小説(風の歌を聴け)を書いた、ということを覚えてた。だから僕もなんとなく、「うーん、28くらいになったら僕にもそんな瞬間が来るのかね」と思ってたんだけど残念ながら今のところ来ていない。

ただし「30過ぎて走り出した」というのが一緒だね。そして「楽しい」って感じてるところも一緒。

なんなんだろうなぁ、この楽しさは。説明ができない。

休日出勤とかしてますよね。夜、人とご飯食べる約束があったとする。休日出勤して会議の終わる予定が5時、ご飯食べる約束が8時。3時間空いてる。走れる。となるともう会議の終盤くらいからソワソワしてる。(平日はまぁ夜に予定があることが少ないので遅くなってもいいと思ってる) そして終わってとるものもとりあえず外に出て雨が降り出してたりするともーうがっくし。

僕が走りだしたきっかけはスイカマラソンにエントリーしたことなわけだけど、正直もうあんまり関係ない。たとえば明日、「今年はスイカが不作なのでスイカマラソンは中止になりました」と言われても「ふーん」と思ってまた走るだろう。

今までフルマラソン走る、って人の気が知れなかった。オリンピックに出るとかならわかりますよ、国の名誉だとかそういうのを求めているんだろう。でも市民ランナーとしてフルマラソン走るこたぁないじゃないですか。明らかに体に悪そうだし。

でもね、フルマラソンも最近ちょっと考えている。マラソンのサの字くらいは見えてきたかな。

ドッピオさんのブログにちょっと書いたけど走り出すことにあまり理由とか決意は要らない。「うーん、走ってみよっかな」とふと思って、なんとなく走ってみる。そんなに長い距離じゃなくてもいいし、ふと通勤途中でもいい。走るのはちょっと、と思うならとりあえず外をぶらぶら歩いてみればいい。

そうすると頭の中でごちゃごちゃに(たとえばステレオの裏のコードみたいに)なってた問題がいくつか解決できる。その中のいくつかはたとえば美味しいもの食べたり、好きな人の声を聞いたりしたら解決できる問題だったかも知れない。

それでも「走ることでしか解決しない問題」ってのが確実にあるんだよ。

いいよ、走るの。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする