というと大げさだけど、日本語を母国語として、
まじめに、とは言えないけど英語をずっと勉強してきて
いま結構がんばってイタリア語を習っていて
思うことは、それらの言語の特徴。
まず、英語はなんと言っても「語順の言語」なんだ、と
思っている。
どういうことかと言うとたとえばこの文章、
Ann likes an apple.(アンはりんごが好き)
もしこの語順を変えると、
An apple likes Ann.(りんごはアンが好き)
わけがわからなくなってしまう。
当たり前じゃないか、と思うでしょう?
でも日本語は違う。
アンは/りんごが/好き
りんごが/好き/アンは
好き/アンは/りんごが
文節で切って順番を変えても意味は通じる。
(含意は違うかもしれないけどね)
英語は「語順」にがんじがらめにされてる言語だ、と僕は思う。
日本語は「助詞の言語」
助詞の使い方で大きく変わる。
アンは/りんごが/好き。
アンが/りんごは/好き。
ぜんぜん違う。
ではイタリア語はどうか?
イタリア語に限らずヨーロッパ祖語は「活用の言語」なんだろうと思う。
Mangio la mela.(りんごを食べる)
この「mangio」というのは「mangiare」(食べる)
という動詞の一人称単数形。
だから「私は」と言わなくてもわかる、だいたい省略される。
語順は多少自由。
La mela mangio.
(りんご、(私は)食べる。)
何かから自由になると、何かに束縛される。
英語は活用から自由になり語順に束縛された。
イタリア語は語順から自由になり活用に束縛されている。
そして、日本語は語順からも、活用からも自由だけど、
助詞に束縛されている。
ということを最近考えている。
まじめに、とは言えないけど英語をずっと勉強してきて
いま結構がんばってイタリア語を習っていて
思うことは、それらの言語の特徴。
まず、英語はなんと言っても「語順の言語」なんだ、と
思っている。
どういうことかと言うとたとえばこの文章、
Ann likes an apple.(アンはりんごが好き)
もしこの語順を変えると、
An apple likes Ann.(りんごはアンが好き)
わけがわからなくなってしまう。
当たり前じゃないか、と思うでしょう?
でも日本語は違う。
アンは/りんごが/好き
りんごが/好き/アンは
好き/アンは/りんごが
文節で切って順番を変えても意味は通じる。
(含意は違うかもしれないけどね)
英語は「語順」にがんじがらめにされてる言語だ、と僕は思う。
日本語は「助詞の言語」
助詞の使い方で大きく変わる。
アンは/りんごが/好き。
アンが/りんごは/好き。
ぜんぜん違う。
ではイタリア語はどうか?
イタリア語に限らずヨーロッパ祖語は「活用の言語」なんだろうと思う。
Mangio la mela.(りんごを食べる)
この「mangio」というのは「mangiare」(食べる)
という動詞の一人称単数形。
だから「私は」と言わなくてもわかる、だいたい省略される。
語順は多少自由。
La mela mangio.
(りんご、(私は)食べる。)
何かから自由になると、何かに束縛される。
英語は活用から自由になり語順に束縛された。
イタリア語は語順から自由になり活用に束縛されている。
そして、日本語は語順からも、活用からも自由だけど、
助詞に束縛されている。
ということを最近考えている。
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