浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

僕の考える比較言語学

2006-02-25 03:35:46 | イタリア語
というと大げさだけど、日本語を母国語として、
まじめに、とは言えないけど英語をずっと勉強してきて
いま結構がんばってイタリア語を習っていて
思うことは、それらの言語の特徴。

まず、英語はなんと言っても「語順の言語」なんだ、と
思っている。
どういうことかと言うとたとえばこの文章、

Ann likes an apple.(アンはりんごが好き)

もしこの語順を変えると、

An apple likes Ann.(りんごはアンが好き)

わけがわからなくなってしまう。
当たり前じゃないか、と思うでしょう?
でも日本語は違う。

アンは/りんごが/好き
りんごが/好き/アンは
好き/アンは/りんごが

文節で切って順番を変えても意味は通じる。
(含意は違うかもしれないけどね)

英語は「語順」にがんじがらめにされてる言語だ、と僕は思う。

日本語は「助詞の言語」
助詞の使い方で大きく変わる。

アン/りんご/好き。
アン/りんご/好き。

ぜんぜん違う。

ではイタリア語はどうか?
イタリア語に限らずヨーロッパ祖語は「活用の言語」なんだろうと思う。

Mangio la mela.(りんごを食べる)

この「mangio」というのは「mangiare」(食べる)
という動詞の一人称単数形。
だから「私は」と言わなくてもわかる、だいたい省略される。
語順は多少自由。

La mela mangio.
(りんご、(私は)食べる。)

何かから自由になると、何かに束縛される。
英語は活用から自由になり語順に束縛された。
イタリア語は語順から自由になり活用に束縛されている。
そして、日本語は語順からも、活用からも自由だけど、
助詞に束縛されている。

ということを最近考えている。

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