浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

最大の名

2011-12-10 01:52:40 | 日記
どこかできちんと話そうと思っていたんだけど、今回は大ネタです。

興味ない人は本当に興味がないと思う。だけど、とても面白い話なのでお暇なときにぜひどうぞ。この話を「あ、おもしろいね」と思っていただける人とはぜひお酒を飲みたい。

なんの話かというと大大大落語家、三遊亭圓朝(えんちょう)の話。



一大ロマンだし、ミステリーもあるし、日本語史でもあるのでまぁごゆっくりどうぞ。僕もゆっくり書いてきますから。

落語というものが生まれたのはそもそも今から400年前、戦国時代末期。この頃は「面白い話をする」という一点のみが落語の特徴でした。ですから、演者は扮装をしていたり、時に楽器で音楽を鳴らしたり。

そうやって発展してきた落語界に登場したのが三遊亭圓朝、今からだいたい100年ほど前の人。


この人が行った数々の革新のうち、まず大きいのは「素話(すばなし)」というスタイルを確立させたこと。

天才圓朝は師匠に習い、それまでの落語(つまり立ち上がったり、扮装したり、音楽を鳴らしたり)に飽きて、「最小限で無限を表現する」ということを始めた。

最小限の演者(一人)、最小限の動き(座ってるだけ)、最小限の衣装(着物だけ)、最小限の小道具(手ぬぐいと扇子だけ)、最小限の舞台装置(座布団だけ)で無限の空間を表現するという「素話」というスタイルを始めた。

これって今のいわゆる「落語」のスタイル、ということ。つまり現在の落語のスタイルは圓朝が作った、と言える。

加えて、彼はたくさんの作品を残した。

今は古典となっている「芝浜」「文七元結」「怪談牡丹灯篭」「真景累ケ淵」、などなど落語史に残る作品は彼のオリジナル作品。これらは落語においてはいわゆる「大ネタ」というやつで落語家の中でも真打が独演会なんかでやるネタになっている。つまり、実力の無い人はなかなかやらない、というか出来ない。そもそもそれらを巧くやるには技術がいるし、実力が無い人がそんな大ネタをやったら師匠や周りの人に「実力も無いくせに」と怒られちゃうから。

加えてこれらの作品は落語だけじゃなくて歌舞伎になったり、様々な文学作品の下敷きになったりと多くの分野で参考にされている。

直近で言うと村上春樹のベストセラー「1Q84」は「真景累ケ淵」を下敷きにしている。(と、本人がインタビューで答えている)

そしてこの圓朝は日本語の歴史にも大きな影響を与えている。

圓朝が生きていた幕末から明治初期はまだ日本語は「書き言葉」と「話し言葉」に別れていた。

書き言葉というのは例えばこんなの。

「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり」(舞姫/森鴎外)

昔の古典なんかに出てくる文章だね。昔の小説や文章はこのような「書き言葉」で書かれていた。

そんな中、圓朝は「速記」ということを始めた。これは自分の落語を弟子にその場で話している通りに記録させ、文章にさせること。当然、落語をそのまま記録させたので話し言葉で書かれている。それを新聞で連載させ、なかなか寄席に来られない人たちにも自分の落語を読ませるようにした。

これを見ていたのが二葉亭四迷という作家。

彼は「落語でこのようにしているんだから、小説も読みづらい書き言葉ではなく話し言葉で書かれるべきだ」と考え「浮雲」という小説を書いた。これが日本で初めて、話し言葉で書かれた小説となる。

この作品は「言文一致」という運動に発展し、それ以降、多くの「話し言葉」での小説が書かれるようになった。その言文一致運動の結果が夏目漱石の「我輩は猫である」ということになる。

つまり、圓朝が「速記」ということをしなければ言文一致運動は無く、ならば夏目漱石も出なかった。夏目漱石が出なかったということはその弟子の芥川龍之介も出なかったわけで日本文学は大きく変わっていたはず。

つまり圓朝という人は落語界だけでなく日本文学界にも大きな影響を与えている大きな人なんです。

いかがなものでしょうか。

三遊亭圓朝という人がどれくらい大きな人がご理解いただけたと思います。

さて、一般に落語家の名前(名跡)というのは弟子弟子に受け継がれていくもの。最近だと林家こぶ平が「林家正蔵」を襲名したし、来年くらいに桂三枝が「桂文枝」を襲名することになっている。だから、この三遊亭圓朝という名跡も誰かが継いでいてもおかしくない。

だけど三遊亭圓朝は初代圓朝死後、現在まで約100年、誰も継いでいない。

これが落語界最大のミステリー。

三遊亭圓朝の名は、本人死後、藤浦家という家が保管をしている。代々の藤浦家当主が「誰に継がせるか、あるいは継がせないか」ということを決定する。

(なぜ藤浦家がこの名跡を管理しているかというと圓朝が生きているときに当時の藤浦家当主が経済的に援助したからとのこと。)

三遊亭圓朝の死から約20年後、三遊亭圓右(えんう)という人に襲名の話があった。この圓右という人は別名「名人圓右」というくらいで大層上手な落語家だった。しかし襲名が決まったものの、正式に襲名する前に亡くなってしまった。よって「幻の圓朝」と呼ばれることになる。

それ以降、圓朝の名は誰にも継がれていない。

なぜかというと余りにも圓朝の名前が大きすぎるため。

落語界においては神様のようなものなので、よっぽどの人で無いと継げない。

圓朝の名を継ぐにはどうやら3つの条件があるらしい。

それは、「1、集客能力がある=つまり人気が高い」「2、創作能力がある=古典だけでなく自ら新しい落語を創ることが出来る」「3、襲名のために必要なお金を払える=一説には数千万とのこと」。

圓朝の名を狙った多くの落語家がこの3つの条件をクリアすることが出来なかった。

一番、最近で動いたのは6代目三遊亭圓生、戦後に活躍し昭和の大名人といわれた落語家の時。

この人は死ぬ直前まで、場合によっては死ぬベッドの上まで「圓朝の名前をくれ」といい続けていたらしいけどなれなかった。

その理由は上の3つの条件のうち「創作能力がある」をクリア出来なかったから。

…というのは建前で性格が悪くて敵が多かったから、という話もあるそう。

(確かに圓生は見るからに性格悪そうなんだよなぁ。でも悪い人の出てくる噺をするとハマリ役。ちなみにいうとこの「三遊亭圓生」という名跡を現在、少なくとも3人の落語家が争っていてちょっともめている。)

更に時代を下るとその圓生とともに落語四天王と呼ばれた桂文楽が「圓朝の名を継げるのはこいつだけ」と同じく四天王の1人古今亭志ん生に告げた。


八代目桂文楽、別名「黒門町」


五代目古今亭志ん生

この「こいつ」と言うのが古今亭志ん朝、名人志ん生の実の息子。


別名「矢来町」

この人は平成になってからも活躍していたし亡くなったのは2001年と最近の人なのでもしかすると見覚えのある人もいるかもしれない。

名人志ん生の息子という血統、芸は天下一品、人気は抜群、人柄も良い、とすべてが揃った落語家だった。更に言うと師匠(つまり父、志ん生)の師匠の師匠が圓朝と一門的にも繋がっている。

しかしながらそれだけ将来を嘱望され、落語家としてここからが円熟期という63歳で病没。

もしいま生きていたら73歳。圓朝を継いでいたかどうかは分からないけどもしかすると父の名「志ん生」を継いでいたかも知れない。

立川談志が志ん朝に「志ん生を継げよ」と言ったエピソードはまるで落語の人情話な感じでいいよ。動画あります。


(志ん朝が亡くなった時の談志のインタビュー)

と、このように大名人圓朝の名は初代圓朝以降、正式は誰にも継がれることなく残っている。

しかし、1997年頃、実は藤浦家からある落語家に「圓朝を継がないか」という話があった、ということが最近わかった。

これまたすごい話なんだけどそれは長くなるのでまた今度。
コメント (2)
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