浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

しんぶんぶん

2011-05-27 20:20:38 | 
僕は新聞を読まない。

…と、もし10年前に言っていたらもしかするとかなりバカにされたかも知れない。

その頃はまだまだネットの力が弱くて、やっぱり「ニュースソース」としての新聞の価値が非常に高かったから。

でもあるときから僕は「こんなの、ネットのほうが早いじゃん」と思うようになったんだよね。そもそも新聞という「形」ってすごく不便なんだもの。大きいしすぐバラバラになる。文庫本くらいの大きさだったらもっといいのにね。あと毎日のことなので古新聞がすぐ貯まってしまう。

数年前だけどこんな出来事があったんです。

喫茶店がどこかでコーヒーを飲みながらふと隣を見るとお客さんが新聞を広げている。スポーツ新聞だったと思うんだけど。その見出しが目に入った。芸能欄だったと思うんだけど。
で、そこにニュースが書いてある。
そこで、ふと僕は携帯でニュースをチェックしていたら「今朝、○○新聞で報じられた××というニュースは誤報だと判明」というニュースが流れていたんだよね。

その出来事で「ああ、新聞というメディアはなんて不便なんだろう」と痛感してしまったんだよね。そこから完全に新聞をあきらめてた。

でも最近、ふと思うことがあって新聞を改めて購読することにした。まぁ基本的に天邪鬼、ということが大きいんだけどね。

何よりやっぱり新聞の価値というのは『面積』ということだと思う。

つまり一面をぱっと見ただけで「どのニュースが大事なニュースなのか」ということがその「面積」で分かること。これは新聞(というか”紙”)ならではのことだよね。

それから『興味の無いことを読める』ということも新聞の利点。

僕は各種新聞やその他ニュースサイトをRSSリーダーに登録して見出しで読めるように設定しているから、とにかく多くのニュースから自分の関心のあるニュースにすぐアクセスできるという点では非常に便利。
一方、新聞を読む、ってなるとほとんど僕には興味が無いことばかり。それでもざっと読んでいると読んだ結果、「へー」と思うこともある。

たとえばこないだ「琵琶法師」の記事があってね。若い方なんだけど琵琶の音色と共に語られる平家物語が好きで自分でもやるようになった、と。

もしこれが見出しでRSSリーダーにぱっと出てたら特に気にも留めないけど新聞で大きな面積が使われているとやっぱり読んじゃう。そして「そうか、ちょっと琵琶の音色なんて聞いてみたいな」と思ってyoutubeで探してみたり、「そうか、来年の大河ドラマは『平家物語』なんだ」なんてどうでもいいような、それでも自分の興味が広がってく感じがする。

この、紙の新聞、って絶滅が危惧されて既にかなりの時間が経ったけど、まだまだ寿命は長い気がします、たぶんおそらく。