浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

「はなし家」だけど話さない

2010-11-24 21:00:22 | 
読みたいな読みたいな、と思ってたんだよね。
立川 談春
扶桑社
発売日:2008-04-11


立川談春という落語家のエッセイ。落語家を志してからの修行の日々や、真打になるまでの葛藤、師である談志との日々、などの話。

僕自身は落語は大ファンってほどじゃなくてたまに本を読んだりネットで動画を見たりする程度。好きではあるんだけどね。(セールスマンとかにおいては話術の勉強として参考にはなると思うし)

なによりこの本の白眉は談春の師匠談志と、更に談志の元師匠、小さんの話が出てくる最終章。涙無しでは読めない。

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一応、説明しとくと柳家小さん(故人)という人は人間国宝にもなった人で落語界では超有名、落語協会の会長(当時)。

一方、立川談志は小さんの弟子だったけどいろいろあって落語協会を脱会し独自路線である「落語立川流」というのを立ち上げた。師匠と弟子でありながらこの騒動以降、和解することは無く小さんは亡くなってしまった。落語の本流である小さんと異端児の天才、談志の和解は多くの落語ファンが願い、夢見たこと。つまりプロレス界においては馬場猪木並。

「柳家小さん」味噌汁のCMで有名。

「立川談志」彼を評する言葉はただ一言、「天才」
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真打を目指す談春は7日連続の独演会を企画する。一夜目と最終夜の相手が談志、その間は小朝をはじめ、当代切ってのスター噺家。彼らと競演して談春が遜色ないのであれば師匠談志は彼を真打を認めざるを得ない。

ここで談春はもう一つだけ考える。競演相手として最も師匠である談志を驚かせられるのは誰か。それは小さんしかいない。談志に内緒で小さんに出演をお願いするため、友人である柳家花緑(彼は小さんの弟子であると共に小さんの実の孫)に相談。花緑は快諾し小さんに談春を繋ぐ。

小さんは談春に聞く「このこと、師匠は知ってるんだね?」と。談春は「はい」と嘘をつく。

すぐにそれは談志の耳に入る。「お前の独演会に小さん師匠が出るらしいな」「はい」「よし、じゃあ俺が挨拶に行くよ」

つまりここに来て!

小さん・談志のニアミスが起こりそうになる。これは僕も読みながら(結局二人は会わなかった、という歴史的事実は知ってるんだけど)「会ってくれ!プライドなんか捨てて会ってくれ!談春なんとか言え!いや、もうこの本ここからフィクションになってもいい!会ってくれ!」と心の中で願った。

でも談春は悩む。一番望みながら一番恐ろしかった二人の再会。この再会は確実に落語の歴史に残る。自分は落語史に名前を残していいのか?このまま話を進めればいいのか、それともここで師匠に土下座をしたほうがいいのか、そもそも独演会に小さんを呼ぶことは間違っていたのか。。。間に入ってくれた花禄に相談する。花緑の答えは「会わせない」。曰く「小さんは病院から出てきたばかりでしかももう高齢。今、いいことだろうと悪いことだろうととにかく興奮させたらどうなるか分からない。実の孫として反対だ」

談春は談志にわびる。ここで乾いた声で返す談志の台詞が…。これはもう読んでもらうしかない。

元師匠でありながら、落語の本流から離れなきゃいけない原因となった、愛おしく尊敬しつつも相容れない、一番愛してしかも一番憎い、元師匠小さんに対する談志のなんとも言えない気持ちが入り交じったいい台詞だった。

結局、小さんと談志の最後の邂逅は成らず。。。小さん死後、銀座のバーで談春・花禄に小さんの思い出を語る談志が切ない。。。


読んでて思うんだけど、談志も談春もその他の人々も「自分の気持ちや事実をはっきり言えば」ほとんどの問題は解決したはず。

例えば談春が「稽古してやるよ」という談志に対して「すいません、風邪をひいておりまして」と断り、談志が「そうか、じゃあ風邪が良くなったらゆっくり稽古するか」と言った、というエピソードがある。
談春は、喉が悪い師匠に風邪をうつしては申し訳無いという気持ちだったが、後に談志は「談春は風邪程度で俺の稽古を断った」と思い周囲に愚痴る。。。

この行き違いだって最初から談春が「風邪をうつしてはご迷惑ですから」と言うか、あるいは途中ででも「師匠、違うんです、あのとき断ったのは…」と言えば良かった。談志にしたって「お前、風邪程度で俺の稽古を断るのか?」と聞けば談春が「いえ、違うんです」と言ったろう。

彼らのやりとりを読んでると「みんなはっきり言えよ」と思う。あるいは「もうちょっと聞いてやれよ」とも思う。

でもこの人たちは言わない。「それはどういうことだ?」とも聞かない。

何故か。

たぶん、言わないことで伝わることこそが大事なことだと分かっているから。「噺家」という「話すこと」を職業としている人たちなのに。いや、だからこそ、なのかも知れない。

弟子も師匠も、相手のことを分かって上げられなかった自分を責めてる。言葉なんかに頼らなければ相手を分かって上げられなかった自分を責めてる。何度も何度も次こそ相手のことを分かって上げよう、と努力する。

そういうシーンを読んでると毎回切なくてもどかしい。お互い誤解しあって曲解して伝えたいことが伝わらない。なんでみんな幸せになってくれないんだよ、って文句を言いたくなる。

でもそんな師匠と弟子の関係が愛おしい。そしてそれが眩しくて眩しくて仕方ない。