山下忠雄、前西宮文化協会会長
画・江嵜 健一郎
「水と近世西宮」と題して山下忠雄、前西宮文化協会会長、現顧問の記念講演会が4月28日(木)午後2時半から西宮神社会館であり楽しみにして出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。
吉井良明会長は「講師の山下忠雄先生は昭和15年、西宮神社のすぐそばのお生まれ。母校私立西宮高校教頭、平成12年に西宮市民文化賞、兵庫県功労賞受賞、現在も西宮の歴史を学習、執筆活動を続けておられます」と紹介した。
山下先生は「西宮と言えばまず宮水が思い浮かびます。西宮は武庫川と夙川に挟まれた内容のある町です。夙川は美しい川です。上流、中流、下流にかけて人工的に作り換えられた川です。多くの文化人を引き付けました。下流の下葭原町には甲陽学院中学校があります。」と話を始めた。
「武庫川は上流に歴史のある、和紙のふるさと名塩があります。清らかな水が和紙を生みました。名塩は江戸時代初期、二十余戸の寒村でした。心にゆとりが出来ると文化に興味が生れます。製紙業を営んでいた億川百記(娘の八重は緒方洪庵の妻)は蘭学を大阪で学んだ。塾の後輩の洪庵を長崎に遊学させた。洪庵は独特の教育で福沢諭吉、橋本佐内、大村益次郎など個性豊かな人材を育てた。適塾の入門者は延べ3千人を超えた。洪庵亡きあと妻、八重は適塾の世話に勤め蘭学の母と慕われた。紙すきの家に生まれた弓場勇は両親兄弟とブラジルに渡り、様々な改革を行った。日伯親善に活躍した。」と話を進めた。
「水は農業の基盤である。農業では、田畑の面積や年貢計算,新田開発、洪水の後の耕地復旧、水利・灌漑施設建設に測量(数学)知識が必要だった。西宮(瓦林)に和算で天下一と称された数学者の毛利重能がいる。明治維新のとき日本は西欧列強に追いつくため欧州中心に外国人を日本人の倍以上の給料で迎えたが,日本には和算での積み重ねがあったので数学では外国人を呼ぶ必要がなかった。」と話した。
「近世の西宮(鳴尾)では油菜や綿花栽培が盛んだった。綿花は従来の麻と比べ肌触り、保温吸水性に富み日用着だけでなく軍服学生服など使われた。古着は仕立て直しされた。着古すとおしめ、雑巾等に再生れた。鳴尾には質屋さんが多かった」と紹介した。
「農業に肥料は欠かせない。中世以後、農村では糞尿が利用された。人間の糞尿は最高の有機肥料である。汚わいが町中を縦横に通る川や運河で処理された。西宮の糞尿肥料は京・大坂から汚わい船で運ばれ今津で小舟で積み替え畑に散布された。西宮で糞尿需要が増え紛争が頻発した。糞(九十)川は1938年、久寿川に改名された」と話した。
ここで一息入れた山下先生は「時間ありますか」と事務局に声をかけた。「15分はあります」との答えにエンジンを入れ直して以下一気に話をした。「水となると宮水。お酒の話になります。お酒は歓楽街につきものです。西宮は歓楽街の神崎や江口に近かった。歓楽街の賑わいは大江国房の「遊女記」に詳しい。平安時代末期に後白河法皇残した歌謡集「今様」がある。艶っぽい歌が残っている。法皇は「今様」を遊女と紙一重の傀儡(くぐつ)から口移しで習った。」と紹介した。
「今津は古津(武庫の湊)に対する地名です。今津は棉花・油菜・干鰯の集散地で灘五郷25万石の内今津は1割占めた。今津は多くの人材を輩出している。五代目の長部紋次郎は私費で今津灯台を築いた。廻船問屋出の藤田瑞峰(絵師)も人材の一人です。」と紹介した。
「お酒に関連して「新酒番船」があります。幕府は酒造利益に注目して今津とともに尼崎藩から収公した。酒造技術のほかに、西宮から江戸への船速と運賃競争をした。帆掛け船で早い船だと2日半で品川に着いた。早く届けばその分鮮度がよいので高く売れた。」と話した。のぼりを立てて複数の船が競う品川港の様子を画いた絵を会場正面に映した。
「本日は、あれもこれもと話した。改めて西宮文化協会の会報に機会をもらい発表したい。」と話し山下先生は講演を終えた。(了)