38歳からの百姓志願~実践編。

霊峰・石鎚を仰ぎ、瀬戸内の陽光を望む愛媛県西条市、「有機菜園 藤田家族」無農薬・無化学肥料の野菜と暮らし。

浮浪児、戦災孤児。

2013年08月13日 | 農と暮らしの日記
空芯菜は収穫が追い付かないほどの繁殖ぶり。
生育が進むと茎が太くなりすぎるので、収穫と歩調を合わせてくれるといいのだけど、そううまくはいかない。収穫より生育が遅ければ「不作」ということでいらいらしてくる。厳密にいえば、野菜は「余る」か「足りない」かのどちらかになるわけで、そのことだけをもって一喜一憂しても疲れるだけだ。まずは「足りてる」ことに感謝しなければ。
「しなければ」というあたりが、感謝してない証。



火曜、今日も朝から晩まで、夜中まで晴れ。
昨日41℃を記録した高知県四万十市では今日も40℃を超えたらしい。当地は35℃前後。

どうやら暑さには少し慣れてきたようだ。
畑で暑いと思うのは朝の収穫の後半、7時~8時台の朝の陽ざしを受けている時くらい。真昼は畑に行かないようにしていて、夕方5時台以降はたいして汗もかかない。むしろ、車に乗り込んだ時や家の中に入ったとき、ごはんを食べたあとなんかが暑い。

午前:6時過ぎから収穫2時間半ほど。
荷造りして10時前にフジグラン西条に出荷。戻って野菜セットの荷作り。
午後:薫が新居浜方面に配達。
僕は残りのセットの仕上げとフジグラン西条の追加出荷の荷作り。14時頃にフジグランに追加出荷。
夕方:オクラや葉もの3兄弟に油粕を追肥してから水やり。19時過ぎに帰宅。



昨夜のNHKラジオ深夜便のインタビューは真夜中に目が冴えてしまった。
神戸の大空襲で両親を亡くし、いわゆる「戦争孤児」として育ち、生きてきた山田清一郎さん(77歳)。太平洋戦争で地上戦が行われたのは沖縄だけだというが、地上戦であろうがなかろうが、日本全国が「戦争」の現場だったのだと思う。山田さんの話のなかで、戦争孤児に対する日本政府や日本人の態度は極めて残酷なもので、勝ったアメリカが敗者の日本人に対してそうするならまだしも、なぜ日本人が同胞に対してこれほどひどいことができたのかと語っていたが、戦後、日本人は敗戦から立ちあがり、一致団結して今日の繁栄を築いたというような美しいストーリーの陰に、目をそむけるような幾多の現実があっただろう。

父が神戸の大空襲に遭った時の話を僕は、幼いころから何度も聞かされた。
いわゆる学童疎開に学齢が届かず家族と神戸にとどまっていた父は、母親(僕の祖母)と共に、防空壕には入るな、入ったら死ぬということでひたすら地上を逃げ、祖母に手を引かれ、いや、引かれというより、足が宙に浮くほど吊り下げられるようにして逃げて生き延びたという。父はその話をするたび、「あの時、あの手を離しとったら、わしは間違いなくフロージになっとった」と話していた。「浮浪児」の文字もわからず「フロージ」という音のまま、足が宙に浮くほど手を引っ張られている父の姿とともに僕の中に刻まれている。

そんな体験をした膨大な数の人たちが、いまの日本に暮らしている。
そうした記憶を体の奥底に刻んだ人たちが、自分と同じこの時代を日本で共に生きているということが時々とても不思議に思える。つくづく、本当に日本は瞬くような短い時間で「平和な国なった」のだと思う。いまの「平和」が「当たり前」だとか「末長く続く」というふうに、なかなか思うことができない。

<本日の野菜セット>例
玉葱、胡瓜、茄子、ピーマン、オクラまたは三尺ささげ、つるむらさき、モロヘイヤ、空芯菜。
セットによってはじゃが芋、甘唐辛子(伏見甘長または万願寺)、から。
コメント
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