できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

いまがちょうど、私たちのふんばりどころ。

2012-01-21 12:19:57 | ニュース

大阪市の橋下市長の就任から1か月が過ぎました。新聞各紙などはあらためてこの1か月をふりかえる特集記事を組んでいるようで、そこでは次のような形で、橋下市長サイドの「相当いろんなことをやった」というコメントが紹介されているようです。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120120-OYT1T00247.htm (橋下市長就任1か月「相当いろんなことをやった」:読売新聞2012年1月20日付け配信記事)

ですが、よく考えてみたらすぐわかるのですが、この1か月間の橋下市長のしたことといえば、とにかくテレビのニュースや新聞の記事で目に付くような政策提案を発信することばかり。その発信した政策提案、これをどう具体的にこれまでの大阪市の施策に落とし込んでいくのか、整合性を保つのかといった調整作業は、「まだまだこれから」です。あるいは、そこはブレーンや市の職員に「丸投げ」ということでしょうか。

ということは、逆に言えば、彼は自分は方針さえ示していれば仕事をしたと思っている、ということでしょうか。あるいは、市長として関係する部局や市議会の各会派、地元の諸団体などとの地味な調整作業というのは、今後、彼としては「やらない」ということなのでしょうか。いずれにせよ、いろんな提案をぶちあげてみただけ、具体化は「まだまだこれから」という段階で「相当いろんなことやった」と言いうるところが、私などにしてみるととても信じられないですね。

と同時に、この1か月間でいろいろ見えてきたのですが、中央政界も橋下市長や大阪維新の会の動きにすり寄る方向性が見えてきましたし、あるいは、いままで批判的な意見を出してきた市民の間からも「敵に回すのはマズイ」といって、彼らに対する言葉を選んで発信するようになってきているように思います。そして最近では、大阪市長選・大阪府知事選のダブル選挙の結果を受けて、たとえば「ファシズム」や「ハシズム」「ポピュリズム」といった言葉で大阪維新の会や橋下市長サイドの動きを批判したことが、あまり得策でなかったかのような、そんな論調での識者のコメントに接することもあります。

でも私は、このような動きこそが、まさにこの社会における「ファシズム」「全体主義化」を加速する流れなのではないか、と思ってしまいます。

たとえば、去年のダブル選挙で平松氏に投票した52万票の大阪市民の「民意」、これをどう考えるのでしょうかね、このような論調の人々は? あるいは、大阪府知事選挙で、今の松井知事以外の候補者に投票した人々の「民意」、これはどう考えればいいのでしょうか?

私はこのように別の候補者に投票した人々の意思、これは無意味であったとは、とても思えません。というか、今日も大阪市内では「教育基本条例案」に反対する立場からの集会が開かれますが、大阪維新の会や橋下市長・松井知事の動き方に明確にノーをつきつける人々がこれだけの数ある、ということが、かえってはっきりしたという意味もあります。

実際、あまり大きくマスメディアは伝えていませんが、堺市議会や大阪市議会はいったん、「教育基本条例案」を否決していますしね。やはり、大阪維新の会や橋下市長・松井知事らの動き方については「納得いかない」「これはおかしい」ということに、それ相応の意味があると私は思っています。

また、この就任以来の橋下市長の市の職員労組への攻撃、「道徳教育」に関する監視機関の設置提案、さらには「国旗・国歌」に関する教員処分の問題で、最高裁の判決が出たにもかかわらず「教育基本条例案」の基本的な姿勢を変えようとしない部分など、やはり<彼らのやろうとしていることは、「ファシズム」「ハシズム」ではないのか?>という見方をしたほうがいいことも起きています。(ちなみに、彼の今の動き方を「マッカーシズム」と表現する識者の方もいるようです。これもなかなか当たっていると思います。)

そして、このような一連の動きを見て、「あれはやっぱり、問題が多いのではないか?」「何か改革は必要かもしれないけど、でも、あのようなやり方は望まない」等々と、橋下市長や大阪維新の会の支持層のなかにも動揺が広がる危険性すらあります。

だからこそ、橋下市長は連日マスメディアに出て、なんとかして自分達への期待をつなぎとめたい。あるいは、自分達こそ「民意」にこたえようと努力している側なのだ、おかしいのは公務員労組や教育委員会や学校教員なのだ、という風潮をつくっていきたい。そんな側面もあるのではないでしょうか。

でも、そうやって自分達こそ「民意」にこたえようと努力している、自分達の主張する改革こそすばらしいもので、反対する人々こそおかしい、我々に黙って従っていればいのだ、というポーズをしつづけるのも、やがてどこかで無理が出てきたり、ほころびが生じてくるでしょう。

たとえばいま、次々にいろんな政策提案をして、その実現に向けて努力していても、何か1つや2つくらい頓挫するものがでるでしょう。あるいは、その政策提案のなかには「拙速にすぎる」ものや「内実のあやしい」ものもあって、実施すればかえって市民生活に大きな支障が出るものもあるでしょう。そして、市民生活にさまざまな支障が出て、実際に混乱が生じてくれば、「黙って従っていた結果がこれですか?」とか「期待していたのに、なんだ、こんなにつまらないことなのか?」という声が出てきて、そこから期待が幻滅に変わり、やがて怒りや批判・非難へとつながることも予想されます。

そういうときこそ、橋下市長ではなくて平松市長に投票した人々、松井知事ではなくてほかの候補に投票した人々の声、意思が、大きくクローズアップされるとき。「ほらね、だから言ったでしょう? 最初から危ないってわかっていたじゃないの?」と、胸を張って言えるときだと思います。

いずれにせよ、マスメディアを通じて自分達への興味・関心をひきつけ、次々に人々の目を引くような政策提案をして世論を味方につけるような、劇場型の政治というのは、いずれ「現実」でボロが出たときに、一気に崩壊するのではないかと思われます。

今、私たちがなすべきことは、(1)その劇場型の政治に長けた人々が発信してきた政策提案に対して、「現実」の部分で表れてきた「ボロ」をていねいにすくいあげ、文字や映像・音声などで記録にして、さまざまなチャンネルで情報発信していくこと。また、(2)今、彼らが発信している政策提案そのものをさまざまな形で記録化して、あとで検証可能な状態にしておくこと。そして、(3)今の段階でも集められる限りの情報を集めて、彼らの政策提案に対してどれだけ批判的な見解を出せるのか、問題点があると言えるのか、それを検討しておくこと。この3つのことではないかと思います。

ちなみに、この3つのことに長けた人々は、実は大学にいる人文・社会系の研究者。あるいは、教育運動や労働運動、反差別や人権に関する運動など、何らかの形で社会運動に取り組んでいる人々、そして政治権力に対して批判的な立場を貫くようなジャーナリスト、マスメディア関係者のみなさんではないでしょうか。だからこそ、彼らはいま、こうした研究者や社会運動にかかわる人々、自分たちに対して批判的なジャーナリスト、マスメディア関係者などに対して、必要以上に攻撃的になるのだと思います。それだけ、この手の人たちがこわいのでしょう、恐れているのでしょう。

いまがちょうど、私たちのふんばりどころではないでしょうかね。


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