http://www.kyoto-seika.ac.jp/event/kiyo/pdf-data/no23/sumitomo.pdf
これは以前、うちの大学の紀要に書いた論文。子どもの人権オンブズパーソンで仕事をしていたときに経験した「学校・教育行政への苦情対応」のことについてまとめたもの。
このなかで私は、学校の教員の子どもへの不適切な対応や、子どもとかかわらせていることが「不適格だ」と思われる教員の存在に対して、その苦情をあるルールのもとに適切に処理し、その教員への指導を改善したり、人事異動等などの形で対応するシステムを整備すること。そのことについての両義性を指摘しました。
つまり、実際に子どもの側に立ってこの課題をとりあげてみれば、子どもへの教員の不適切な関わり方を改善したり、改善が見られなければその教員の異動や処分を行うというシステムは、それ相応の正当性をもっている。
がしかし、そのシステムがどういう手続きで導入され、どういう手続き的ルールのもとに運用されるのか。そこについてきちんとした検討を行わなければ、そのシステムを乱用して、「とにかく誰か教員をクビにしたい、転任させたいとき」に恣意的にシステムが使われるなど、別の問題への処理に使われる危険性が残る。そして、そのような恣意的なシステム運用の結果、かえって学校の教育環境が悪くなることだって十分予想される、ということです。
今までもブログに書いてきたように、学校事故・事件の被害者・遺族の方々と私、いろいろ関わりが深い立場にあって、「このまま、この人を教員として仕事させていていいの?」と思うような教員がいることも重々承知しています。「あの教員、何も教育行政からの指導や再研修もないまま、学校に居続けさせるのは、まずいでしょう」というケースがあることも、子どもの人権に関する課題に取り組んでいると、よく見聞きします。
ですが、下記の記事にあるような橋下市長が導入しようとしているシステムは、そういう被害者遺族側の願うようなものを実現させるために、教員を異動させたり、これまでの子どもとの関わり方を改善させたりするシステムとして、はたして本当に機能するのかどうか。
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120111-OYO1T00781.htm?from=main1 (橋下大阪市長、道徳教育の内容監視機関を設置の意向:読売新聞2012年1月11日づけ配信記事)
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120110-OYO1T00768.htm?from=newslist (不適格教員、保護者が申告、大阪市教育条例案:読売新聞2012年1月10日づけ配信記事)
むしろ、「教育基本条例案」や「学校統廃合」への抵抗勢力を排除するなど、自分たちの教育改革の路線に従わない教員を排除するために、今後、「保護者の声」を積極的に武器として使うぞ、と言っているだけにすぎないのではないか、という気がしてなりません。
なにしろ、橋下市長は知事時代、下記のブログが書いているように、体罰容認発言を行っていたことが知られています。このブログなどを見ている限り、今のところ、彼には子どもの人権を尊重するという姿勢はあまり見られません。このような体罰容認の論理を前提とする人のつくる苦情対応システムでは、いわゆる教員の暴行、過剰な叱責・暴言等が背景にあって生じるような子どもの「指導死」(指導を背景にした子どもの自殺)のようなケースは、どこまでまともな対応をしてくれるのか怪しいところです。
http://blog.livedoor.jp/hotforteacher/archives/51721036.html
とすれば、たとえば学校事故・事件の被害者・遺族の側が願っているような、子どもの人権を守らないような「不適格」教員の対応、教員の不適切な子どもへの指導については、彼らのつくるシステムでは対応しないとか、あるいは対応してもまともにとりあげない危険性が残ります。そこのところを、よくまちがえないでほしいと、私はいま、切実に思っています。
もう少しこの話を広げて言うと、今の学校や教育行政のあり方に何らかの形で不満を持ち、現状を変えよう、変えてほしいという願いをもつ人の気分をうまくすくい上げる形で、一見、それに寄り添ったような形をとりながら、全然別のねらいをもつシステムを導入していく。その結果、子どもや保護者、学校現場や各地域などに、新たな混乱と緊張、葛藤をもたらしていく。それが、今、大阪市内や大阪府内で進められようとしている教育改革の動きなのです。そこのところを、今、私たちは冷静に見つめ続けなければいけないのではないか、と思います。
と同時に、学校関係者や教育行政の関係者、そして私を含む教育学の研究者に言えることですが、ある種の「自浄作用」というものが働いて、ほんとうに子どもの人権を尊重する学校や教育行政、あるいはこれを支える教育学を創りなおして再出発しようと全力で尽くさない限り、たとえ「教育基本条例案」を撤回させても、第2、第3の形で、人々の学校や教育への不満をうまくすくい上げて、それを全然別の方向に持っていくような、そんな諸勢力の動きが登場してきます。そのことをどこまで私たちが自覚できているのか、ここも今、問われているような気がしてなりません。