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晋ちゃんの気ままな散歩道

あっちこっち横道にそれたり休んだりしながら気ままに散歩しています。

狭山藩北条氏をひもとく物語

2018-03-08 23:59:56 | 歴史
            
           本日のメインは創作講談、狭山藩ZERO代、北条氏規。
          この人が狭山藩を造った。
          北条氏の祖は、関東地方で勢威を振るった北条早雲である。
          しかし、北条氏は1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により滅亡。
          戦後、北条氏第4代当主・北条氏政と北条氏照は切腹となったが
          第5代当主・北条氏直は徳川家康の娘婿という所以から、
          北条氏規(北条氏康の五男で氏政・氏照の弟)は秀吉とも会ったことがある
          という経緯もあり特別に高野山での蟄居を命じられた。
          
          しかし氏直は嫡子無くして30歳の若さで亡くなった。
          このため北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその後を継いで後北条氏の当主となった。
          その後氏規は河内狭山で7,000石を拝領、氏規が没すると氏規の子氏盛が
          家督と遺領を継いで1万1,000石の大名となり、これが狭山藩の始まりとなった。
          


           
           

           以後、後北条氏は12代にわたって狭山藩を維持したが、軍事費と藩債に潰され、
          明治4年(1868年)廃藩置県を待たずして崩壊、堺県に併合され、その後大阪府に編入された。
          なお、藩主家は明治17年、子爵となり華族に列せられている。

喜連環濠を歩く

2017-11-30 18:38:43 | 歴史
     
     先週「あの町この町再発見」で喜連環濠を歩きました。
     スタ-トはJR平野駅。


     
     平野郷環濠跡とある。
     喜連環濠は北は平等堤までと東は旧東除川、
     西は今川までの囲堤の中で喜連と喜連東に
     それぞれ環濠集落があった。
     村落は南北朝時代と大坂夏の陣の兵火により焼失したが、
     環濠は昭和30年ころまで現存していた。
     旧東除川は1704年の大和川付替えで分断され、現存しないが
     付替え直前の川幅は約40mあった。
     上流には狭山池(日本最古のダム式ため池)がある。

     

     
     喜連(きれ)の名は渡来人の里「伎人郷(くれひとのさと)」
     から転訛したと考えられています。
     その歴史は古墳時代まで遡るといわれています。
     環濠は村落の防衛のためだけではなく、
     狭山池を水源にする平野川に繋がって水運の利もあったと思われる。
 

     
     杭全神社の手前の横道に入ります。
     
     そこに先祖のお墓があります。
     征夷大将軍坂上田村麻呂の子広野麿が杭全荘を領地として賜り、
     その子当道が創建したのが杭全神社なのです。

     
     
     坂上田村麻呂の娘春子のお墓。
     桓武天皇の妃になり、春日内親王を生んだ。
     桓武天皇の没後、杭全神社に隣接地する尼寺長宝寺に寓した。
      

      
      
     
     杭全神社の鳥居の前。
     ここを渡って平野郷の古民家の方へ入ります。


    
          
          旧街道の道標と和菓子屋さんの福助人形。
          
          
          かたな博物館。

   
          
               京町筋。
          この界隈には「へっついさん博物館」「駄菓子屋さん博物館」など
          何でもかんでも博物館と名がついた店が並んでいます。

        
           
          食事処「六々々屋」(平野、食グランプリ1位)
           これにうどんが付いて¥800。
           お昼には常連さんで満杯になるので少し早い昼飯です。


     

大坂夏の陣 道明寺の合戦

2016-12-21 21:49:49 | 歴史
     
     NHKの大河ドラマ「真田丸」は今週の日曜日で終わった

     大坂夏の陣、道明寺の合戦は、慶長20年(1615年)5月6日
     河内の国志岐郡道明寺村、誉田村付近で戦われた
     豊臣方の猛将後藤基次、薄田兼相等は討ち死にし
     続く真田信繁、毛利勢は撤退を余儀なくされた
     この記念碑は平成26年11月に近鉄南大阪線道明寺駅前に
     建立されました

     戦国時代の軍紀ドラマが人気になるのか
     あらすじが解っているから安心して見ていられる 
     一回見逃しても流れが解っているからすぐに入って行ける
     
     年末の紅白歌合戦、出場メンバーが大幅に入れ替わり
     年寄りは引退させ、若い人を重用した 結果は如何に?

7月5日(月) Sパソコン教室

2015-07-07 22:58:58 | 歴史


朝9時から月2回の自治会パソコン教室。
なでしこの試合を見たくて遅刻して来た人もいた。
残念ながら試合開始から16分で4失点、完敗であった。

10月の文化祭にどんな作品を出すか話し合いをした。
昨日の夜すったもんだの末承認された「明治日本の産業革命遺産」
をテーマにしようということになり各自担当を決めた。
私は韮山と萩の反射炉を担当することに決まった。
反射炉て何?と訊く人もいる。

反射炉とは不純物を多く含む銑鉄を溶かして優良な鉄を生産するため
の炉です。
銑鉄を溶かすには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、
熔解室の天井部分が浅いドームになっており、そこに炎や熱を反射させ
高温を実現する構造になっている。

私もつい最近まではよく知らなかったが、たまたま一昨年
図書館で借りて読んだ「黒鉄の志士たち」に詳しく書いてあった。




その時ブログにも書いたが、まさに明治維新を象徴する話であった。
反射炉を説明する意味からももう一度復習してみた。

まさに幕末、外国船の大砲の脅威を察した佐賀藩主鍋島正直の命を受け、
たった一冊の蘭書を頼りに大砲を造るために製鉄に挑んだ男たちの物語。
まず鉄を溶かすため反射炉を造るのだが失敗の繰り返し。
萩と韮山の反射炉の担当者と情報交換し大砲を造り上げて行く。

佐賀藩や薩摩藩をはじめとして幕末期の日本では各地に反射炉が造られた。
しかしその殆どが失われ、当時のまま残っているのは、萩と韮山の反射炉のみ。
特に韮山の反射炉は、実際に稼働し、大砲を鋳造した反射炉であります。

6月10日(火) せいだんクラブ施設見学(2)

2014-06-12 23:20:30 | 歴史

昼食を終えて向かったのは、史跡・重要文化財「鴻池新田会所」
JR片町線鴻池新田駅近くの繁華街の中にありました





鴻池新田会所は江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営を行った施設です
江戸時代初期の幕府による検地のあとに開墾された農地は、水田・畑地すべては新田と呼ばれました
河内平野南部では、江戸時代中期の大和川付け替えにより流れが途絶えた川床、堤防を中心に新田が造成されました




鴻池家の先祖は戦国大名尼子氏の家臣山中鹿之助幸盛と説明していましたがこれは話のあやだと思いました


鴻池新田会所は鴻池家による新田経営の拠点であり、本邸から派遣された支配人のもと小作人から年貢・肥料代の徴収、耕作地の道路・水路・家屋の修理・管理・維持・人別帳・宗門改帳の作成などの作業を行っていました
また新田を開発し小作を続けて60歳になった老人には年金として米が配給されたそうです



邸内の配置図です


本屋内の土間



座敷


天井
鴻池のほかにも沢山の新田が開墾されましたが豊作、不作の繰り返しで小作人は農地を捨てて逃げ出すことが多かったようです
鴻池では米作のほかに綿作りに力を入れバランスの安定をはかっていたため逃げ出す小作人はいなかったそうです
大和川の付け替え当時には久宝寺木綿(八尾)半田木綿(狭山)長野木綿(河内長野)山根木綿(生駒西麓)などの河内木綿が新田地で作付けされていました



敷地内には本屋・米蔵・道具蔵・乾蔵のほか長屋門・居宅・朝日社などがありました


米蔵は天井が高く沢山の米俵が積み上げらていたようです


生駒山を借景にした庭園には弁天池を配し、檜・松・槇などの大木が植えられていました


朝日社(神社)

会所のまわりはマンションなどが建つ住宅地、周りの風景に合わない一角でした
見学に参加したメンバーの一人は、仕事で鴻池新田にはしょっちゅう来ていたが駅の近くにこんな所があったとは全く気がつかなかったと言っていました



会所から歩いて3分鴻池新田駅前の繁華街でバスに乗り、4時過ぎ狭山に帰ってきました

6月10日(火) せいだんクラブ施設見学(1)

2014-06-11 16:55:00 | 歴史



せいだんクラブ施設見学
8時45分バスで狭山を出発、まず枚方市にある旧田中家鋳物民族資料館へ向かいました  参加者25名
昨日までの暑さとはうって変わって花曇り、いい具合のお天気でした




入口を入ってすぐのところに鋳物とは関係のない、住居跡がありました
弥生時代後期の実物の住居跡です



弥生時代中期の竪穴住居跡をモデルに復元したものです
直径8.5mの平面円形の住居で、高さ5mの茅葺屋根をかぶせてあります



復元住居の内部


内部から見た茅葺





旧田中家鋳物工場建屋、江戸時代の貴重な鋳物工場
屋内が高温になるので、細長い建物の土壁に多数の格子窓を配し、風通しを良くしています
また瓦屋根の中央には、こしき炉の熱気を逃がすために風袋がついています


建屋の裏側




建屋の内部
こしき炉の模型、内側には耐火れんがが張ってあり上部から材料の金属を流し込みます



金属を溶解するには炉内を高温に保たねばなりません
送風機が発明されるまでは踏鞴(たたら)を使って温度を上げていました
踏み板の両端を交互に踏む単調な重労働を数時間以上続けていたのです







建屋内には鋳物を作るのに使う道具、製品などが置かれていました
田中家は古くから旧河内国茨田郡枚方村で鋳物業を営んでいました
主に近隣の人々が日常生活に使うナベ・釜・農具のほか寺院の梵鐘などを鋳造していましたが昭和40年ごろ廃業しました
その後大阪府から文化財に指定され寄贈されました





旧田中家住宅、元文4年(1739年)頃に建てられたそうです
周辺の住宅と違って、建築当初から防火も兼ねて屋根に瓦が葺かれていたのが特徴です








見学を終えて11時半、貸切バスで昼食会場へ向かいました

せいだんクラブ史跡散策(付録)

2014-05-11 23:00:00 | 歴史

昼食のあと向かったのは甲賀流忍者屋敷。


甲賀五十三家(甲賀忍者)の筆頭、望月出雲守本家の旧宅。


「まきびし」説明のように植物の「ひし」を乾燥させたもの。


ゴルフの打ちっぱなしではありません。
手裏剣の道場です、忍者にも左ギッチョが居ったのでしょうか。



かくし梯子。






落とし穴。


どんでん返し。
その他「抜け道」「隠し部屋」「縄梯子」部外者には絶対に開けられない
窓や土蔵、などの仕掛けがある。
望月家の祖、望月三郎兼家は甲賀三郎ともいわれ、伝説の甲賀忍者
猿飛び佐助は望月家の忍者だったとも言われている。



続いて行ったのは「擽野寺」(らくやじ)。
参道には沢山の石仏像、全て十一面観音像です。



本堂には日本最大の十一面観音菩薩坐像、高さ3.12m。
左脇には薬師如来坐像2.22m、右には地蔵菩薩坐像1.18mがある。
また写真の右側に土俵が見えるが、この土俵は今から1200年ほど前、
坂上田村麻呂が鬼退治をする際に擽野寺の本尊十一面観音に祈願し、
成功したお礼に家来に相撲を取らせ奉納したと言われている。




最後に寄ったのは東海道49番目の土山宿の東海道伝馬館。




この中にむかしの東海道の様子を表す展示物がいろいろある。


細川家の大名行列の様子。




旅装束。


旅姿。


東海道宿を現した絵や名物が展示されている。
京都、大津、前にある名物は私の好きな「走井餅」。



桑名の名物「焼き蛤」。


森鴎外が立ち寄ったことを記す石碑。
むかしの殿様をはじめ宿場町にはいろんな人が立ち寄ったことが分かる。

ここを最後にあとは途中トイレ休憩もしないで狭山へ向けて帰路を急ぎ
6時過ぎ無事帰宅した。

せいだんクラブ史跡散策(1)

2014-05-10 23:01:00 | 歴史

5月8日今年2回目のせいだんクラブ史跡散策。
湖南三山、常楽寺、長寿寺、善水寺を巡ることになり、
参加者18名がマイクロバスで8時に狭山を出発しました。
草津でトイレ休憩。



最初に予定していた常楽寺では催事があるため本日拝観はお休み。
すぐ近くにある長寿寺へ向かいました。



長寿寺本堂(国宝)。
拝観出来なかった常楽寺と同じ良弁僧正の建立で東の長寿寺、西の常楽寺
と言われている。
本尊は地蔵菩薩、境内にある弁天堂(重文)は修復中でした。



境内には鐘。


多宝塔。


また白山神社などがありました。


信楽に近いせいかこんな焼き物が休憩所の側にありました。


山門は現在修復中、新緑のモミジが印象的でした。
秋になって紅葉すれば素晴らしいなと思いました。




長寿寺を出た前の道路からの眺め。
すでに田植えが始まっており躑躅がきれいでした。



次に訪れたのは岩根山善水寺。


和銅年間(710年頃)元明天皇の勅願で開創、
延暦7年(788年頃)最澄上人比叡山開創。



本尊薬師如来坐像、梵天、帝釈天、四天王、僧形文殊菩薩、
不動明王、兜跋毘沙門天、金剛力士、時国天・増長天などを安置。



比叡山との繋がりから信長の比叡山焼き討ちの時被害を被った。


延暦年間(800年頃)伝教大師最澄上人がこの寺の霊水で
桓武天皇の病気を平癒、善水寺の号を賜った。



霊水を頂いて昼食予定のレストランへ向かった。

7月7日(日) せいだんクラブ史跡散策(2)

2013-07-09 12:52:00 | 歴史

カフェレストランを出てダリア園、花の道、バラ園を通ってドーム型をした公園館に入りました。
ここにはまが玉や前方後円墳の模型などが展示されています。
ここで持参した昼食(おむすびなど)を食べる予定であったが館内は飲食禁止。
仕方なく館の前の広場で昼食となりました。


出土したまが玉。


食事のあと沢山の古墳が点在する園内を今日のお目当て、ナガレ山古墳に向かいます。


大きな池が現れました、下池です。


この池の周りには別所下古墳、狐塚古墳、その他乙女山古墳、巣山古墳などがあります。
錦織公園とは規模が違うことが分かってきた。


一本松古墳。


日陰が欲しい、ナガレ山古墳の手前のあずま屋で休憩。
本日の参加者17名、最高齢者86歳、最年少者68歳、平均年齢77.29歳。
この炎天下、熱中症にもならず立派なものです。
私も持参したポカリスエットは2本とも空になりました。


最後は「ナガレ山古墳」。
長さ105m、高さ8.75mの前方後円墳。
5世紀前半の築造物を復元させた国指定の史跡。


古墳の周りには円筒埴輪、アサガオ形埴輪が復元されています。
494本は強化プラスティック、181本は河合町民が粘土を積み上げた手作りの埴輪です。


古墳の上からの眺めは最高でした。

このあとはバスで近鉄電車五位堂駅に出て帰路につきました。
お疲れさまでした。

7月7日(日) せいだんクラブ史跡散策(1)

2013-07-08 23:14:00 | 歴史

せいだんクラブの史跡散策、奈良シリーズ第9回。
朝からカンカン照り、熱中病対策に20年ほど前ゴルフの時に被っていた帽子とポカリスエット2本持って出かけた。


金剛駅に17人が集まり8時30分出発。


新今宮でJR大和路線に乗り換え「王子」まで。


JRのすぐ横にある近鉄電車田原本線「新王子」駅。


この線路を走るのは多分初めてだろう。



「池辺駅」で下車。


今日の行き先は「馬見丘陵公園」。


駅のすぐそばに「河合町役場」がある。




広陵町から河合町にかけて広がる古墳を取り込んだ「馬見丘陵公園」。
広陵町は竹取物語のかぐや姫が住んでいた所で「かぐや姫の里」と言われている。


公園の中へ入る。


案内の看板の前に皆が集まる。


公園の中をさらに進む、木々の木陰があって涼しいところもあるが日向は暑い。
公園は「錦織公園」に似た雰囲気だ。




大型テントの広場。


カフェレストランで昼食にした。


レストラン特製のいろんなフルーツがトッピングされたホットケーキパンが美味しかった。