ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

上坂冬子さん

2009年04月20日 | 新聞から
                 白いボタンが3っつ咲きました




    


今月14日 ノンフィクション作家の上坂冬子さんが亡くなりました。一度お会いしたい人のお一人でした。どこかで講演があれば聞きに行きたいとも思っておりました。

「これで愛国心を持てというのか」と題した北方領土問題を書かれた本も読みたいと思って、リストアップしてあります。北方領土なんて私が知ったのはつい最近の様な気がします。領土問題とか領海とか国民はあまり関心が無かったと思います。

自分達が選んだ議員さんが「良きに計らって」くれているから私達は考えなくてもいいんだという考えでした。だけど議員さんたちは、自分の選挙区の事は熱心でも、国全体の事に対しては無関心と言うか、放置していたんですね。

北方領土だけではなく、尖閣諸島、竹島、対馬等、中国、韓国と相手が増えて、何れでも相手国に押し捲られて、日本の外務大臣は、外務省はどうしていたのか?と国民が知る事になりました。

上坂さんは北方領土に含まれる国後島のご出身でもあるので、この問題には熱心に取り組んでおられました。只単に評論するだけではなく、身を持って行動し、自分の目で見たこと、耳で聴いたことを書いておられたようです。だからずばりとものが言えるのですね。

曽野綾子さんも私の好きな人のお一人なんですが、類は類を呼ぶといいますが、上坂さんと曽野さんは30年来の大親友だそうです。今年2月に上坂さん、曽野さん野対談集「老い楽対談」と言う本が出ていたようです。またまた読みたい本が増えました。

作家の佐藤愛子さんは「特別個人的に親しくしていたわけではないけれど、人間的に大好きだったので、対談などは断らずに喜んでお受けした。非常に正直で率直な方」と評しておられます。

Willの編集長の花田さんもやはり30年来のお付き合いで、弟のように可愛がってもらったそうです。「周囲を気遣ったりしないで思ったことをはっきりおっしゃる、さっぱりした方」といわれます。

又他の方は「上坂さんは『一刀両断』と『迷うべきこと』との区別が出来る人」と語ります。

付き合いが続く内に理解が深まって、長いお付き合いに発展していくというお人でしょうか。

もう随分テレビでお目にかかっておりませんでしたが、もしかして徹子の部屋の追悼番組でお会いできるかもしれないな~と思っております。

上坂さんのご冥福をお祈りすると共に、著書を読む事によって偲びたいと思っております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路 8

2009年04月19日 | 思い出話
  平成13年12月16日 (土曜日)   22番  平等寺

おちさんが「お先に」の挨拶と共に先発されました。次に私達が、マイカー遍路さんは後でしたが、間もなく追い越していかれました。

今日の後半も山の遍路道でよかったのですが、「マムシに注意」の大看板には参りました。時期的には、土の中でお寝んねとは解っていても、いい気持ちはしませんでした。足は知らぬ間に急いでいました。   



竹林はなんとも幽玄で美しいものでした。写真を撮っていると反対の方から男性が現れました。その人は手に8ミリを持ち見回りの方の様な感じでした。後で主人に「あの人は警備の人かしらね?」と言ったら「そんな人に会わなかった」と言う答えです。一本道なのに? ではあの人は何処から出てきた? 上の崖から飛び降りたのか? 下の竹林から這い上がってきたのか?(遍路道は山頂から谷への中間に作られているので、右も左も急傾斜なのです) いやはや、私は如何して人の見ないものを見るのだろうか?ヘビといい、人といい。


私の左奥の屋根の下に「万病に効く霊水」が涌いています。  勿論飲みましたよ。

22番 平等寺は最近手入れされたという新しい感じのお寺でした。幅広い階段を数段登ると其処に納経所と万病に効くといわれる霊水「開運鏡の水」(弘法さんが掘られた)があります。お水は其処から又登る階段の左手に埋もれるような形であるのでわかりにくかったです。勿論飲ませていただいたし、ボトルにも汲ませていただきました。


お寺の隣に「山茶花」と言う食堂があったので、少し早いが昼食を取ることにしました。始は私達だけだったのですが、少しして地元の男子高校生が二人入ってきました。焼肉定食を頼んで、備え付けの漫画本を読み始めました。私達は朝ごはんをたっぷり頂いてきたので、プチホットケーキセットと言うものを注文しました。それは丁度たこ焼きの様な形をした小さなホットケーキでした。ホットケーキ大好きな私は満足しました。


JR新野(あらたの)まで1時間ほどで着きました。駅舎で遍路装束を脱ぎました。電車が来るまで小1時間ありました。ホームに出るとおじさんが話しかけてきました。「秋とか春とかの季節のいいときはお遍路さんは多いけれど、今頃歩く人は珍しいね。昨日は焼山寺は雪だったそうだよ。1月2月はお山は雪で、つるりと滑るよ」だって。1時間30分で徳島駅到着。買っていたバスの時間を変更していただいて、予定より2時間ばかり早く神戸に着きました。三宮駅はルミナリエを見に来た人でごった返して居ました。主人は「序でに見て帰ろか?」だって。とんでもない。帰心矢の如しです。


1回2回はこのような思い出をつずるつもりもありませんでした。しかし3回目から書き始めますと「1.2回の分も書いたら? 途中からでは惜しいよ」と言う主人の要望にこたえて思い出しつつ今日(平成14年8月7日)やっと書き終えました。

どうしても思い出せないお寺もありました。名古屋の植木さんがダビングして送ってくださったテープを見ても「こんなとこだった?」と頼りないことです。年の所為かしら?それもあるかもしれませんが、私の心構えの所為だと思います。

何年も前から主人が「遍路に出たい」と言っておりました。主人が言い始めたその年に私もなって「行ってもいいかな?」と言う気持ちが芽生えました。

私も年金をもらえるようになって、それを「小さな二人旅」としてツアーに参加してみました。何かしっくりこない感じなのです。そこで「歩き遍路」と言う選択が出てきました。だから私としては「一緒に行ってあげている」と言う気持ちが強かったのです。

2回目を終えたとき、行くだけではつまらないのでは? と思い始めました。では想い出を書き留めておきましょうという気持ちになり、パソコンの活用にもなるし、それならデジカメの写真も入れてみようかしら…。そうすれば書くだけではなく割付のお勉強(元の冊子では写真もさまざまな大きさがありますし、文章の位置も変化がありますし、このブログのように一定ではありません。しかしブログで同じにするのは私には難しく、1本調子ですが、この形にしました)にもなるし、カメラの活用にもなる。希望通り1号1号自分では進歩してきたように思います。遍路の楽しみが2倍3倍に膨らんできました。周りをしっかり見ようとしますし、カメラに収めようともします。

「一気打ち」「一国打ち」「区切り打ち」それぞれの良さがあるでしょう。私達は「区切り内」をするので、良い点といえば、四国の四季を身近に見れるという事でしょうか。

花好きのわたしは鉢にちんまりと大切に育てている花が、自然の中で逞しく群生する姿を見て驚きと同時に強い喜びを感じました。その花の出自を知ることで、それからその花との接し方も適切なものになりました。遍路の効用の可能性は計り知れません。

しかし自分から求めなければ何も得られないのです。始の一歩が無ければ結願が無いが如く…。
    1冊目終わり         (1030回)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路 7

2009年04月18日 | 思い出話


              12月14日 (木曜日)   
           18番 恩山寺   19番 立江寺


予報どおり雨だった。朝5時といえばまだ暗い。足元を照らす懐中電灯の中に小雨が光る。一度交番で道を訊ねたほかは黙々と歩む。8時過ぎには雨も上ってきた。しかし昨夜からの雨の水溜りがある。その上をダンプ・カーが通る。容赦なく、派手に水飛沫を上げる。一度まともに水飛沫の洗礼を受けた主人は極端に避けようとする。

18番札所 恩山寺の少し手前から遍路道になっていた。公道を離れ、遍路道に入るとほっとする。その山道への分かれ道の所にお大師さんお手植えの木と言う大きな木がありました。雨にぬれた道は滑りやすかった。

お寺の広場にはテントが張ってあって、喪服の人たちが居た。法事のようだった。
このテントのことはよく覚えているのに、肝心のお寺についての記憶が全く無い。

下りは遍路道は足元が悪かったので車道を下ることにした。道端に「みかん」の無人販売があって私達も一袋買い、食べながら下った。

19番札所 立江寺までは4.6キロである。寺は少し広い道路から少しいりこんだところにあった。男性の1人遍路さんが話しかけてこられた。「何時も別々なんですか?」主人と私の到着の時間差のことを言っておられるのでしょう。「そうなんですよ、歩幅が違いますから…」なんだか歩き遍路について、色々お話なさった覚えはあるが、内容に付いてはすっかり忘れて仕舞っています。

驚いたことに我尼崎市市会議員のこにしよしこ(当時は現役でしたが、亡くなられて、今は娘さんが地盤を引き継いでおられる、幼稚園を経営しておられるから、票は取り易いのかも知れない)さんが300万円の寄付をした石碑が建っていました。この土地の出身者なんでしょうか。

寺から山裾の一本道まで迷いに迷いました。それで今夜の宿「民宿 金子屋」までの10.5キロがとても長く感じました。町に入り「金子屋さんは?」と人に訊ねると「直ぐだよ」何度聞いても「直ぐ其処だよ」です。宿に電話して現在地を言い、宿までの道を尋ねるのだが、どうも話しが合わない。おかしいと思っていると「XXさん(私達)は明日の予約になっていますね」だって、私は次の日の宿に今日の宿の場所を聞いていたのです。笑ってしまいますね。辿り着いた時には「もう歩けない」と言う感じでした。主人は足の爪が痛んでいたからだろう、今日は私が始終リードしていました。

12月14日   民宿 金子屋   (3泊目)

同宿は男性1人、女性一人、私達の4人でした。その他、1階では町内の人の宴会があるようでした。

女性はおちさんといい、昨日からの2連泊で、今日は早朝から往復40キロほどを「別格 慈願寺」まで登ってこられたそうです。細身の身体の何処にそんなパワーが潜んでいるのだろうかと思う娘さんでした。

遍路をするようになった切っ掛けはお祖父さんが亡くなり、遺品の整理をしている時、遍路の道具一式を見つけたそうです。これはお祖父さんが行くようにといっているのだと思ったそうです。一気打ち(1~88番まで連続旅すること)だそうです。私達の次の参考にさせていただきたいと思い、現状をメールでお知らせいただけないかとお願いしました。快く引き受けてくださいました。

(翌日からメールの交換が始まりました。一日1回午前8時頃が定期便でした。その内にこのメール交換を冊子にして彼女の「結願祝い」にしようと思いつきました。帰宅の報を受けて直ぐ冊子を作りお送りしました。思いがけぬことだったのでしょう、とても喜んでくださいました。

翌年2月に高野山に行くと連絡があり、神戸でお食事を共にし、フェリーの時間まで再会を楽しみました。後に結婚したと通知があり、男の子が生まれたと知らされた後、音信が途絶えました。「もう二人目が出来ている頃では?」と時々思い出しておりましたら、今年久し振りに年賀状が来ました。其処には「また子連れでおち(旧姓)に戻りました。メールアドレスは変わりません。またメールくださいと書いてありました。いずれにしても彼女が幸せで居てくれればいいかな~と思いました。)



               12月15日 (金曜日)    
   20番 鶴林寺(かくりんじ)  21番 太龍寺(たいりゅうじ)

 

徳島県の2.3番の難所が今日のお寺です。男性もおちさんも先に宿を立たれた。おちさんは「お先に…」と挨拶をしに来られた。今時の若い人には珍しいなと思いました。今夜の宿も偶然ご一緒です。

今日は2つの山越えなので気が高ぶっている。しんどいけれど遍路道なのが嬉しい。数秒の間だけれど霰が降ってきて、見る見るうちに窪みを埋めたのでヒヤッとした。始から坂道だった。故に少し登っただけで昨夜の宿のある村が眼下に見下ろせました。

「お鶴さん」といわれる20番 鶴林寺の「鶴」に早く会いたい、早く見たいと心は焦れども身体は進みません。やっとの思いで着いたお寺には「鶴」が二羽ひっそりと佇んでいました。私達二人だけだったと思います。その静けさが返って心せかせ、あたふたと次の寺を目指しました。



「鶴林寺」から一旦下りそして又登ったところに21番 太龍寺があります。その二つの山の谷あいの様なところに、せせらぎが流れ気持ちのいい場所がありました。そこで作っていただいたおにぎり弁当を頂きました。その間も何方も下ってこられませんでした。私達の前におちさんが居られるだけの感じでした。

確かこの写真を下ったあたりに坂村真民さんの「念ずれば 花開く」の石碑が立っていたと思います。

坂村真民さんとは読書会でお世話になっている愛媛県の詩人です。(当時はご存命でしたが、何年か前に亡くなりました)初めのころの詩は身近で納得のゆく詩が多々ありましたが、90歳を過ぎておられる現在、言葉が大きすぎてというか、宇宙を題材にされたものが増えて、又、病に臥せっておられる奥様の事等が多くなって、私としては余り共感を覚えなくなりました。石碑の写真も撮ったのですが上手に写せませんでした。

太龍寺への道は辛かったのですが、気持ちの良い道でした。山の頂山門を潜ってからは何故か風が強く杉木立を恐ろしい強さで揺すっていました。ロープウエイが通っていると言うので、見に行くつもりでしたが、風の強さに恐れをなして一刻も早く降りたいという気持ちになり、見に行くのを中止してしまいました。ロープウエイでは風に揺れて凄く怖かったそうだ。乗って登ってきた人が口々に言っていました。太龍寺では名の通り天井に「龍の絵」がありました。小さなお守りを買いました。

               
      本当は3X4の小さいお守りで 何時もお財布に入れているのです 
        何のご利益があるのか忘れているのです 
      お財布に入れているからお金持ちになるご利益?
          ヘビは嫌いだけど 龍は好きなんです  


心急かれて今夜の宿に向かったが、宿は案外近くに在って、3時には着いてしま居ました。おちさんは2時に着かれたそうです。ご主人は快く迎えてくださいました。何故こんな事を書くかと言いますと、昨夜の宿では3時ごろに着くと「早過ぎる」と文句を言うそうです。


12月15日  竜山荘  (4泊目)

お仲間はおちさん、自動車遍路のご夫妻と私達でした。ご夫妻は昨日から廻り始めて2日目で此処に来られた。私達は8日ほど掛けて、やっと此処です。明日には徳島を制して帰宅されるそうです。「一国打ち」と言う廻り方です。

お料理は品数も多く美味しかったです。てんぷらで小さな粒のカラフルなアラレが昆布について扇のように見えるのがあって、あまりに可愛いので「如何して作るのですか」とお聞きしてみると、既製品のもので、「只揚げるだけです」とそっけないお答えでした。この揚げ物一つでテーブルが華やかになっていました。明日は平等寺で打ち止めなので、ゆっくりできるので朝食も頂くことにしました。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尼崎の未来を考えます

2009年04月17日 | 一寸そこまで
            尼崎はこんな町   阪神尼崎周辺

阪神尼崎周辺   このあたりは温泉が出たんです 温泉つきマンションもあるんです

        阪神尼崎周辺  こんなに高層ビルもあるんです
    

           その尼崎の市長さんがこの方です
  




尼崎青年会議所の創立50周年記念関連事業の4月公開例会「~明るい未来へ~」に行って来ました。白井市長の「マニフェスト」をマニフェスト点検市民会議の15人の方々がお調べになったことを市長に申し述べ、市長がそれに答える、それを政策アナリスト池田健三郎(情報ライブミヤネ屋にレギュラー出演)さんが評価するというものでした。

私としましては「ミヤネ屋」と言う番組を見たことが無いので池田さんも存じませんでした。只1時間を使ってマニフェストについて長々とお話になりましたが、アウトラインは私でも知っておりますから、一寸時間が勿体無かったかな~と言う感じで、最後の評価の方に時間をとってくださったほうが良かったと思いました。

「マニフェスト点検市民会議」の方の発表も勿論事実なんでしょうが、計画が進んでいることのみを言われましたので、一寸物足りない感じがしました。

白井市長については益々スピーチに磨きがかかり、といいますのは自分の考えを自分の言葉で語っておられるからだと思います。打てば響くように答えが返ってきますので気持ちがいいです。信じられるって感じでしょうか。

聞き手についてですが、私は自分の選んだ市長のマニフェストの達成度とそれがどのような評価を受けているのかを知りたくて行きました。

尼崎青年会議所の会員の皆さんも一生懸命人集めをなさったそうですが、人は集まらなかったようです。私は前のほうに座っていましたので、アバウトにしかいえませんが350人ぐらいで、100人ぐらいは会議所のメンバーではないのかな?と思います。

尼崎市会議員の方は果たして来ておられたのだろうか?同じ意見の方は勿論、市長に真っ向反対する方も「マニフェスト」のお話しなんですから、足を運ばれたらいいのではないかと思いました。

帰り道を急いでいますと、後から「こんばんわ」と声がしましたが、このあたりで私に声をかける人など無いと思い聞き流していましたら、又「こんばんわ」と声が掛かりますので振り向きますと自転車に乗った元市会議員で今は県会議員のまるおさんでした。「来ておられたのですか』と私「ハイ、白井さんスピーチ上手いですね」「本当にね。声のトーンも下がりましたね。元はもう少し甲高かったと思うのですが」「感じなかったのですが、落ち着かれたという事でしょうか」等々お話しをしてお別れしました。

やっぱりまるおさんの様にお勉強してほしいですね。私は市議として白井市長を助けてあげてほしかったと思っています。今更言っても仕方が無いので、県会議員として兵庫県の為に頑張っていただきましょう。

感想欄に「白井市長でよかったと思います。そしてこのような会を市民にも公開してくださって有難うございます」と書いて提出しました。

池田さんの「全体に対してのご自身の評価は?」の問いに答えられた白井市長の自己評価「財政的には30パーセント、マニュアルの達成率は60パーセント」と言う事でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビのお笑い

2009年04月16日 | 気にかかる
           去年大根島から買ってきたボタンが咲きました  
                白は蕾を3っつけていますが、
             ピンクは葉ばかり茂って蕾がありません

      





               チューリップ(ハウステンポス)
          猫の糞害にあった5本はやはり駄目なようです


     開~いた開~いた 何の花が開~いた チューリップが開~いた

                      ツバキ   
   葉が毛虫にやられてしまったので 諦めていました 5つばかり咲きました




今日は寒くも暑くも無く庭掃除に適した日でした。今日で雑草抜きは終わりましたが、私はこれから植え替えと言う仕事が残っております。


随分前になりますが、こんな投書がありました。

「番組の頭たたくシーン有害」韓国人
『韓国から日本に来てもう三年になる。 …中略… だんだん日本語がわかるようになって、日本の番組にも興味が出てきた。しかし、テレビには目障りな場面がたびたび出てくる。日本のタレント達はどうして仲間を良く叩くのだろうか。ほおを引っ張ったり、頭をたたくのをよく見る。それが日本の習慣なのか。日本ではそんな行為をするといいタレントに見えるのだろうか。理解できない。私の国では顔や頭は大切なところなので、絶対にたたくことはしない。そのような番組を見た子供達が家でも学校でも同じような行動をしたらどうなるのだろうか。私の国では、子供の為にテレビ番組を規制している。子供はテレビの影響を受け易いのだから、そのような規制を日本もすべきではないだろうか。』

韓国ドラマファンの方に言わせると「韓国ドラマには昔のよき日本がある」といわれます。私もNHKの韓国ドラマは見ましたが、時代物ですから、今の現代物を見ていませんので「そ~なん」と思うだけですが…。

確かに日本でも頭をたたいてはいけないと言われていました。この頃は自分の幼い子どもに暴力をふるって怪我させる親も出てきました。テレビの影響が無いとは言い切れないな~と、ふと思いました。たたくという事を笑いと共に覚えて、手加減を知らないから大怪我になるのでしょうか…。親は「そんなつもりではなかった」と必ず言います。

わたしもはお笑いが大好きです。でもこの頃は余り見なくなりました。芸とはいえない行動や、裸に近い姿を芸だとしているタレントを見るのが嫌だからです。テレビによく出るという事は、本当に心から笑っている人が多いのでしょうか。見る人を馬鹿にしていると思うのですが、違いますか?

昔から「どつき漫才」と言う言葉がありました。「どつく」とは関西弁の「たたく」と言う言葉です。又「張り扇」と言って、紙を蛇腹に折った扇子を使ってたたくグループが居ました。「たたく」と言う事は関西の悪い習慣でしょうか?

関西にだって言葉で笑わせる三枝さん、さんまさんと、文珍さん、釣瓶さんと数え切れないほど良い芸人さんがいるではありませんか。今気づきましたが、皆さん落語家さんですね。漫才から出た紳助さんも居ましたね。

叩き合ったり、裸に近い姿で舞台に立つのは本人の為にもなら無いと思います。しかし会社に属する限り会社の意向もあるでしょうから、本人だけの考えとはいえないかもしれません。これらの問題はお笑い芸人を多く抱える、吉本興業にもご一考願わねばならないことでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父と孫

2009年04月15日 | 思い出話
                尼崎・武庫之荘のさくら
     この赤い雪洞が気になるのですけど… 夜桜の灯かりでしょうか?
              夜に歩いたことが無いので???


             尼崎にはたくさんの桜並木があります  
        JR立花駅周辺の沿線  武庫川のほとり 数多い公園等々 
          今日の写真は私がジムに歩いていく時に見る桜ですに


                   小学校のさくら  
          今年はピカピカの一年生を見守ってくれたようです




昨日おじいちゃんのことを書きました。ちょうど今朝の番組でおじいちゃんと孫の話題が出ていました。

写真好きのおじいちゃんの残した大阪の風景写真が数百枚出てきたそうです。そのお孫さんは写真家(会社などのコマーシャル写真)だそうです。それで仕事の合間におじいちゃんが残した写真の現場を探して写し?十年前と今を2枚を並べてブログを作って載せておられるそうです。毎日数千件のアクセスのある人気ブログだそうです。

私も見たいと思って「おじいちゃんとおれの写真展」探したのですが見当たりませんでした。どこかに違いがあるのでしょうか?もしご存知の方があれば教えてください。

これを探していて「アレッ!」と思ったんです。「おじいちゃん」に関する話が案外在るんです。やっぱりおじいちゃんを好きな人も沢山居るのだと感じましたし、おじいちゃんを慕える人は愛情豊な人生だとも感じました。おじいちゃんとの想い出のいっぱいある私はやっぱり幸せなんだとも思いました。

彼がおじいちゃんの写したその場所を探し当てて、シャッターを切るとき「おじいちゃんも一緒にファインダーを覗いていますよ」といっていました。

今日の同じ場所は宝塚の温室でした。温室前の水辺の欄干がそのまま残っていて、その上に鉢花を置いているのも同じだったのです。

私は時々歌劇を見に行きますので、そのときには必ず、今は「イングリッシュガーデン」と名前を変えたお庭を訪れます。昔に比べて規模は小さくなりました。私が訪れるのは開園直後であることもあって、庭内には私1人という事が多いです。
しかし売店の面積が増えているところを見ると、春や土・日には案外人出があるのかもしれません。

この1年ほどは行っていませんので、画面を見ながら懐かしいな~、行きたいな~と思いました。

彼が写真家になったのもおじいちゃんのDNAと言えますよね。隔世遺伝かな。彼の8歳の時におじいちゃんが亡くなっているので、ほとんど記憶はないそうです。

私は1歳上の9歳でしたが、はっきりと記憶しています。一人っ子でしたし、親戚の家は申すに及ばず、相撲、遊園地、動物園、釣、温泉等色々な場所に連れて行って、人一倍色んな経験をさせてくれましたから…。今、私が色んな事に興味を持つのは、このおじいちゃんの影響が大きいかな?と思っています。

               大井戸公園のアプローチの花壇
       尼崎は「町を花で飾ろう」という事にとても力を入れています



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悼む人

2009年04月14日 | 読みました

           庭桜  (09-4-1 酒屋のおじさんの公園)




今日は一日中雨でした。こんなに長時間降り続くなんて珍しいですね。その雨の中、三宮に友人の「木彫り」の作品展をたまちゃんと見に行ってきました。

彼女の作品を今日載せたかったのですが、撮影禁止でしたので撮れませんでした。彼女にそのこと言うと、生真面目な人ですから、「人になんか言われるのも嫌だから、後で送るわ…」と言ってくれたので、機会があれば又載せたいと思います。

全国で75ヵ所を持つお教室なんですが、彼女は師範の上の研究科です。本部が西宮にあるため、展示会はここ神戸だけで持たれます。だから彼女は出品し、横浜から駆けつけるのです。

久し振りに元気な彼女に会えて嬉しかったです。案内状に14日は4時まで会場にいると書いてありましたので、是非お会いしたいと今日最終日に出向きました。昨日関西入りして、今日帰るんだそうです。元気で活躍する彼女に逢えていい日でした。

たまちゃんとはその後「軽食」と共にして、色々話して別れました。月末には又クラス会で会うことになっていますから、軽くバイバイでした。



           ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

           悼む人     天童荒太 


凄いいっぱい賞を取っている人なんですね。私は「永遠の仔」第53回日本推理作家協会賞、「家族狩り」第9回山本周五郎賞しか読んでなくて、これで3冊目なんです。

「家族狩り」の方が先の出版なんだけれど、私が読んだのは「永遠の仔」上下でした。5年の歳月を掛けた作品だそうですが、「悼む人」は実に7年と言う歳月が掛かったそうです。ご自身もこんなに掛かるとは思わなかったと言っておられました。私には信じられないような時間を掛けて書かれた物を、こんなにさっさと読んでしまっていいのかしらと思ってしまいます。

「永遠の仔」もそうでしたが、「悼む人」もそうなのですが、表紙が一寸変わっているんですね。見開きに「彫刻」とありましたから「木彫」だと思うのですが、お人形なんですね。先日の記者会見でご本人を見た時「似ている!」と思ったんです。顔がそっくりと言うのではなく、人形から受ける感じが似通っていると言うことです。

直木賞受賞の記者会見で「賞は取れません。賞は取ったものではなく授かるものです」と言う天童さんの言葉が心に残りました。

亡くなった人であれば、その経過は問わず悼むのですが、その場合その亡くなった現場の付近で、誰とはなく同じ問いをするのです。「亡くなった人は誰に愛されていたでしょう。どういった方を愛していましたか。人に感謝されたことがあったでしょうか」どんなに悪人でも幼い頃からの悪人は居ないわけで、その頃を偲んで悼むのだそうです。

「どうして隣近所を訊ねて廻って、もっと詳しく聞かないのか」と問う蒔野(静人の行動を疑問視している人、後には理解する)「お店は外に開いていますし、歩いている人も、誰かと会う心構えの様なものが多少はあると思うんです。でも自宅で休んでいる人に、あえて外に出てきてもらうのは別なことですから」
なるほどな~、自然に出会った人からは聞くが、あえて家にいる人まで呼び出す必要を感じないという事でしょうか…。

静人は祖母が亡くなるとき「ばぁば、なに、ほしい?」と聞いたら、ばぁばは「おぼえてて」と答えた。この気持ちは本当に良く解る。私は今でもおじいちゃんのことが好きで、時には思い出に浸ってしまいます。でもそれはそれだけ祖父との交流が深かったからだと思います。今の時代は核家族で交流も少ないから、「おぼえてて」といわなければ、直ぐ忘れてしまうのかもしれません。

主人公の母親が胃癌で死ぬ、その命を引き継ぐように、娘がシングルマザーで男の子を生む。男性のほうの結婚を認めない理由は兄(静人)の「悼む人」の行動による。

音信不通で、死の宣告を受け、息子の帰りを待ちわびる母。母は会う事無く死へと旅立つ。私は思う、親との連絡をせず何が他人を「悼む人」だ。親の身を案じずして何が供養だ!と。親に現状も知らせない息子に対し後味の悪い読書後でした。 

「愛なんて人や物への執着に過ぎない」この言葉なるほどな~。全て執着か~。


  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先週の日々

2009年04月13日 | 一寸そこまで
          西宮・兜山をバックに  毎年撮る場所です

               水面に映る桜が奇麗です

                    満開のさくら

                    これぞ さ・く・ら!



            こちらは 一寸濃い色の派手やかな さ・く・ら









4/8

夙川に花見に行って来ました。桜は堪能したはずですが、やはり毎年行っている場所には行っておかないとと言う気持ちでした。こちらでも満開の桜が私達を待っていてくれました。平日だというのに大勢の人出です。日本人に混じって外人さんも居ましたよ。

駅前のスーパーでお弁当を買って行きました。日陰を探してお弁当を食べました。屋外で食べると、なんでもないお弁当も美味しいですね。

お弁当を買った時、ビールが無かったものですから、別の店で買ったんです。レジに並んでいますと、後の人が、ビール1缶持った私に話しかけました「お花見でお弁当が良く売れていますね。昨日私も花見にいったんですけど、大勢の人がお弁当を食べていたんですよ、ようあんなに埃っぽいところで食べられますね~、あの人たちの気がしれませんね~」って、私は右手にビールを持っていたんですが、左腕にはお弁当を持っています。思わずお弁当を隠してしまいました。潔癖症の人には不潔極まりない行為なんでしょうね。私達は楽しいのですが、潔癖症に間違われたのでしょうか。


4/10

唱歌の学校登校日でした。23日の音楽会の練習で、間奏に入れるハーモニカを聴きました。少し音が小さいかな~と言う感じもしましたが、録音したのを聞きますとしっかりと聞こえていました。前にマイクがあれば大丈夫だと思います。

アルトが少し弱いというのでソプラノから2人移っていかれました。強力なお2人だったので今度はソプラノが少々心もとないかな? と感じます。本当は私の様に普通の声量の人が代わったほうが良いのは解っていたのですが、前々回も私は助っ人でアルトに行っていますし、もう既に覚えていますから行きたくありませんでした。難しいものです。

帰りにはごとうさんの新鮮野菜を頂きました。ありがたいことです。私達の細胞が小躍りして喜びます。


4/11

元会社の同僚であるよしえさんが「朝どり筍」を持ってきてくれるというので、三宮で待ち合わせた。もう1人ときちゃんも一緒でした。

私達が待っているとよしえさんが、リュクサックと手には大きな袋を持って現れた。私は驚いてしまった。「筍」といっても精々1~2本貰うのだと思っていたからだ。

よしえさんは足をくじいたとかでびっこを引いていた。「こんなに1人でよう持てたね」と言うと「ここ(三ノ宮駅)まで主人と息子が運んでくれたん」だそうです。ま~なんと優しい旦那さんと息子さんでしょう。わが家では絶対ありえないことだと思いますよ。

そういえばときちゃんは去年の経験から大きな袋を持っている。私にも去年お声が掛かったのですが、丁度メキシコからオユキサンが来ていたので、日にちが合わずお断りしたのでした。

まずは昼食にしようと決まりました。二人とも「何でもいい」と言うので、私の希望で「中華の焼きそば」を食べに行きました。1時間一寸喋っていたが、昼時で待つ列も出来たので、河岸を変えることにしました。

ときちゃんが「コーヒの美味しい良い店がある」と言うので、その店に行くことにしました。私は「アップルジュース」を頼んだので、コーヒが本当に美味しいかどうかは、又の機会にゆずります…。

ときちゃんが私達の倍の4人の孫を持っているし、長男は3人の子持ちで、近くに住んでいるので、話題も多く、後の二人は聞き役でした。孫もやっぱり「おばあちゃん、おばあちゃん」と懐いてくれる子が可愛いようです。 

「重いよ!持って帰れる?」「欲と二人ずれで持って帰るわ」と言ったものの、その重いこと、帰っては計ってみると5キロありました。その上にチーズ1キロ、他ナッツ類も買っていましたから、7キロはあったと思います。

「朝掘り」が値打ちだからと、今日中にと電話をした相手は、皆さん「お一人様」ですから、陽気に誘われたのかお出かけの模様、夜に再びお電話した彼女は「明日持っていくわ」といえば「今から取りにいく」と言う。

その理由がふるっている「絵に描きたいから…」彼女は絵に打ち込んでいる、美大に行きたかったというだけあって、上手だと思います。去年「筍」を描いたのですが、失敗だったので、もう一度描きたい。去年下さった人が又下さるというので待っていたら、今年は茹でた筍で描かれない。いやはや、マンガの様なお話しです。

其処に私の電話で描きたいという気持ちが抑えられなくなったらしい、「大きさは、幾らでも大きく書けるから、後は1人で食べるのだから、小さいのを頂戴い」と言うので「じゃ~、小振りで色艶良く、形のいいのを選っておくわ」という事で、彼女は家で出来たレモンを7つも持ってきてくれた。物々交換でした。

4/12と今日

主人は芝の草取り、私は花壇の草取りでした。昨日草を抜いて根元によく日の当たるようになったユリやフリージャーたちは気持ち良さそうにしています。猫に土を掘られないように雑草でカバーしていたのです。奇麗になった土には植木鉢を伏せて防御は怠りません。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路 6

2009年04月12日 | 思い出話
           12月13日  (水曜日)
13番 大日寺  14番 常楽寺   15番 国分寺   
16番 観音寺   17番 井戸寺


 
        しあわせ観音

13番札所 大日寺はバス通りに面してありました。朝早い為か人は少ない。目を引いたのは両手を合わせた形の像があり、くりぬかれた中央に観音様が居られます。観音様は「しあわせ観音」とお呼びします。観音様は遍路する人を見守っておられるそうです。

大日寺の住職さんがこう言っておられるのを読みました。「仏縁があって生まれた人は、理屈では解らない契機によって、自然にお遍路さんになられます」草なんですか。私達は特別信心深いわけでもありません。信心する心と仏縁とは別物なんでしょうか?


 流水岩の庭 右奥の木はあらゆる病気に霊験を発するというアララギの霊木

大日寺の右手に沿って北上すると田畑の広がりの中に出る。再び鮎喰川にめぐり合う。橋の上からの眺めは広々として心安らぐものであった。(この風景の橋の上で佇んでいる自分を、そしてなんと広々と豊なんだろうと感じた気持ちは、今も鮮やかに残っている)

常楽寺は石段を上り詰めた所にありました。大日寺から2.1キロの地点に第14番札所 常楽寺があります。その階段も境内も岩盤がむき出しになっています。その岩の凹凸が並のように見えることから「流水の庭」と名付けられています。

此処の納経所でも納経帳のページが朱で染まっている人が居た。『もう何度目ですか?」とお訊ねしても、自分でも何度目か解らないという答えが返ってきました。私の目から見れば、とてもありがたいとは言いがたく、汚らしいと感じるのですが…。

先日の人よりも納経帳の膨れは高く、ゴム輪で縛っていないとぱっくりと開いてしまう状態でした。何故こんなにまで? 一面に書いていただいて、朱印を押していただいて500円なんです。でも見ていますと、字を書く隙間はありませんし、ただ朱印だけを押してもらっていましたから、500円のお布施をして廻っておられるのだろうか。

0.7キロで第15番札所 国分寺である。この寺に関しては何故か全然思い出せない。大きなお寺であるというのに…。だが道中でおばあさんから100円のお接待を頂いた。初めてのお金のお接待でした。嬉しいような、申しわけないような複雑な気持ちでした。頂いたお金は国分寺のお賽銭としたように思います。

1.4キロで第16番札所 観音寺である。観音寺は町なかにあって、数歩歩み寄れば本堂と言う、奥行きの浅いお寺です。

今日訪れる第13番札所から17番札所までの5ヶ寺は距離が接近している「5ヶ所まいり」として近隣の住民が気軽に参拝に訪れる事が多いといわれています。

観音寺から2.9キロのところに第17番札所 井戸寺がある。途中のスーパーでお弁当を買って、井戸寺で昼食にしました。すっきりしたお寺であった記憶はあるのですが、何しろ、この頃には足の豆が相当痛んでいたので、朝に手当てをして出るのですが、休憩した時には足の手当てをしないと居られないくらいでした。今日は此処で打ち止めと言う事もあり、もう歩きたくないと思うほど痛んでいました。

此処から徳島市内に入るのは地図で見ると一本道であるのに、なんだかチマチマと間違ったように覚えています。だから随分遠回りしたと思うのです。今夜の宿を決めてなかったので「徳島厚生年金会館」に電話したが「唯今改装中」とのことで駄目でした。これで又歩く距離が増えてしまいました。

旧道に入ればたくさんのホテルがあるのでそちらに行くことにしました。今回帰る時に乗るJR新野(あらたの)駅の電車の時刻を調べる為に、徳島大学の付近にJR蔵本駅があったので立ち寄ってみた。しかし駅員もおらず、時刻表も無かったので諦めて帰りかけると、駅前に『名水」の看板があり、2.3人の人が水を汲んでいた。「汲んでいかない?}と主人に頼み、その間私は待っていた。

駅の方から私に向かって、ニコニコ顔で跳ねるように、跳ねるように駆け寄ってくる老人が居ました。彼は私の前でピタリと止まり、両手を合わせて拝むような形で私に話しかけてこられました。

「今日は何て良い日だろう! お四国さん(遍路のこと)ですよね。歩いておられるのですよね。私は徳島生まれの大正XX年生まれの辰年で85歳。XXX太郎と申します。生きている内に一度は遍路したいと思いながらこの年になってしまいました。もう実現は出来ないと思います。貴女はお若いのに(85歳の方から見れば65歳の私は若い)歩いておられる。せめてお遍路さんに会いたいと思っていましたが、中々お会いできませんでした。今日貴女にお会いできて嬉しい。こんな嬉しいことは無い」と本当に嬉しそうに満面の笑顔で私を拝んでおられる。ご老人には遍路をお大師さんと思い拝む人が居ると本で読んだことがある。でもまさか自分が拝まれる対象になるとは思っていませんでした。私をお大師さんだと思っておられるのかと思えば、すげなくも出来ず、ただ戸惑いながら話を聞くより仕方がありませんでした。

主人が待ちくたびれて「もう行こうか」と声を掛けるまで、延々と「良い日だ」「貴女にあえて嬉しい」と話しておられた。「どうぞ、ご無事で…」の言葉に送られてお別れしました。今ではあの方が私を見て「幸せ」と感じてくださったのなら、それはそれでよかったと思っています。(今ご存命なら90歳を過ぎておられます。時々は私の事を「あってよかった」と思い出しておられたのだろうか?…)

宿はビジネスホテル「アルファ」に泊まることにしました。

12月13日  アルファホテル徳島   (2泊目) 

フロントで時刻表を借りて、新野駅の時刻を調べた後、徳島駅まで戻って晩御飯を食べ、帰り道のお店で明日の朝の為に「お赤飯」を買って帰りました。明日は雨だという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路  5

2009年04月11日 | 思い出話
    第二回目  平成13年12月11日~平成13年12月15日
          13番 大日寺~22番 平等寺


 

             平成13年12月12日(火曜日)

二度目の旅立ちです。先回同様JRバスで徳島に出る。駅前4番より寄井中行きに乗り、今回の1番(13番 大日寺)を通過、前回歩き終わった寄井中迄乗る。(前回、歩くなら焼山寺から大日寺への斜めの遍路道を歩いておけば、随分距離的に短かったのに、バス道を歩いた為に、三角形の2辺を歩く結果になってしまった。完全に地図の読み間違い。一日無駄にしたと後で気が付く。もし遍路先輩の話しを聞く機会があったなら、絶対にしない間違いである。)神山町役場が目に付いたので、トイレを借りて、今夜の宿「植村旅館」に行く道を聞く為に入っていった。

私達が行くつもりの道より新しい道が出来て、ず~っと近道だと教えていただいた道を行くことにした。

歩き始めると喫茶店があって、もし此処を逃すと後は無いかもしれないと思い「実は駅の地下でお弁当を買って持っているのですが、コーヒをいただきますので、お弁当を食べさせていただいても良いですか?」とたづねた。了解を得て座った。

この店といい、先ほどの役場といい中々の建物でした。特に役場は地方のものとしては大きい。豊な村なのだろうか?昔は林業で栄えた地方だったらしいのです。例に漏れず外国産の安い木材に勝てないと聞くが…。


                鮎喰(あぐい)川と先を歩く主人

鮎喰川を遡っていった。川を見ながら歩くのは気持ちのいいものです。何台もの遍路者を乗せたバスが追い越して行った。窓からは皆が歩く私達を見ておられる。


          
  冷たい天然水を飲む主人(7年前だから今の私と同い年 やっぱり若いね~)

「天然水」と書かれた湧き水があり、柄杓が添えられていた。美味しく頂いた。若い頃はこの無味無臭のこの水の美味しさがわからなかった。都会の水道水の水が美味しい水であると疑わなかった。(私が始めて天然水を飲んだのは、小学3年生の時で、富山の山中だった。それは山の表面をチョロチョロと流れているだけのもので、土地の人は「神さんのションベン」といっていた)遍路に来て水の美味しさが嬉しい。何処の水も美味しいし、身体の細胞が小躍りしてリフレッシュしている気がする。

教えられた道を行くと2時前に植木旅館に着いてしまった。と言っても予約が入れてあるし、先に進みたい気もあるしと迷っていた。出てこられた女将さんが「時間があるし、歩けるのだったら6キロ先にペンションがあるよ」と言ってくださった。「でも今夜の用意していただいているのでしょう?」「かまわんよ」と言う事で、私達は先に進むことを選ばせていただいた。

「ペンションやすらぎ」に電話した。今思えば乗ってきたバス道を逆に戻れば13番大日寺について、次に進めたものを、この道を行くべきであるという固定観念の恐ろしさである。目的地は一つでも道は沢山ある。目を見開いて、その可能性を見極めなければならないという事である。今日一日を無駄にしたことになる。

12月12日  ペンションやすらぎ  (1泊目)

遠回りをしたて、13番大日寺まで5.5キロ手前にその宿はあった。宿主の話しに寄れば「関西で長い間働いていたが、定年で生まれた土地に帰ってきて、この宿は始めはゴルフ客の為に作ったそうだ。ところが関西と橋が繋がってからは、皆日帰りで来る為にお客がぐ~と減った」と言う。そこで遍路客に目を付けたらしい。確か遍路割引があったと思う。

昔は徳島は林業で持っていたそうで、「カボス」「梅」も特産物だったが「カボス」は中国産に押されてふるわず、余った「カボス」は取りに行けばただでくれるそうだ遍路の身では持ち帰れないしね。関西に帰れば一つ何十円もするのにね。

「梅」は紀州が一流、此処は二流でパッとしないらしいと等々不景気な話しです。(この宿のことは時々思い出すのですが、大きい宿ですし、ゴルフ客の為に始めたというだけに小部屋がたくさんありましたし、食堂も大きかったですから、今頃はバス遍路の宿として賑わっているのではないかな~)

翌朝、「昔の遍路道を教えますから、其処を行ってください」とご主人が言われたので、私達は喜びました。案内をしてもらいました「此処がその遍路道です」と大真面目で言うご主人。目の前には高台に立つ宿から自動車道路までの数メーターの土の道があるだけだった。私達はあっけにとられた。道路に降り立った私達は笑い出してしまった。期待した私達が悪いのかしら??(今でも大真面目で泊まったお遍路さんに教えているのだろうか?)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする