ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

遍路 7

2009年04月18日 | 思い出話


              12月14日 (木曜日)   
           18番 恩山寺   19番 立江寺


予報どおり雨だった。朝5時といえばまだ暗い。足元を照らす懐中電灯の中に小雨が光る。一度交番で道を訊ねたほかは黙々と歩む。8時過ぎには雨も上ってきた。しかし昨夜からの雨の水溜りがある。その上をダンプ・カーが通る。容赦なく、派手に水飛沫を上げる。一度まともに水飛沫の洗礼を受けた主人は極端に避けようとする。

18番札所 恩山寺の少し手前から遍路道になっていた。公道を離れ、遍路道に入るとほっとする。その山道への分かれ道の所にお大師さんお手植えの木と言う大きな木がありました。雨にぬれた道は滑りやすかった。

お寺の広場にはテントが張ってあって、喪服の人たちが居た。法事のようだった。
このテントのことはよく覚えているのに、肝心のお寺についての記憶が全く無い。

下りは遍路道は足元が悪かったので車道を下ることにした。道端に「みかん」の無人販売があって私達も一袋買い、食べながら下った。

19番札所 立江寺までは4.6キロである。寺は少し広い道路から少しいりこんだところにあった。男性の1人遍路さんが話しかけてこられた。「何時も別々なんですか?」主人と私の到着の時間差のことを言っておられるのでしょう。「そうなんですよ、歩幅が違いますから…」なんだか歩き遍路について、色々お話なさった覚えはあるが、内容に付いてはすっかり忘れて仕舞っています。

驚いたことに我尼崎市市会議員のこにしよしこ(当時は現役でしたが、亡くなられて、今は娘さんが地盤を引き継いでおられる、幼稚園を経営しておられるから、票は取り易いのかも知れない)さんが300万円の寄付をした石碑が建っていました。この土地の出身者なんでしょうか。

寺から山裾の一本道まで迷いに迷いました。それで今夜の宿「民宿 金子屋」までの10.5キロがとても長く感じました。町に入り「金子屋さんは?」と人に訊ねると「直ぐだよ」何度聞いても「直ぐ其処だよ」です。宿に電話して現在地を言い、宿までの道を尋ねるのだが、どうも話しが合わない。おかしいと思っていると「XXさん(私達)は明日の予約になっていますね」だって、私は次の日の宿に今日の宿の場所を聞いていたのです。笑ってしまいますね。辿り着いた時には「もう歩けない」と言う感じでした。主人は足の爪が痛んでいたからだろう、今日は私が始終リードしていました。

12月14日   民宿 金子屋   (3泊目)

同宿は男性1人、女性一人、私達の4人でした。その他、1階では町内の人の宴会があるようでした。

女性はおちさんといい、昨日からの2連泊で、今日は早朝から往復40キロほどを「別格 慈願寺」まで登ってこられたそうです。細身の身体の何処にそんなパワーが潜んでいるのだろうかと思う娘さんでした。

遍路をするようになった切っ掛けはお祖父さんが亡くなり、遺品の整理をしている時、遍路の道具一式を見つけたそうです。これはお祖父さんが行くようにといっているのだと思ったそうです。一気打ち(1~88番まで連続旅すること)だそうです。私達の次の参考にさせていただきたいと思い、現状をメールでお知らせいただけないかとお願いしました。快く引き受けてくださいました。

(翌日からメールの交換が始まりました。一日1回午前8時頃が定期便でした。その内にこのメール交換を冊子にして彼女の「結願祝い」にしようと思いつきました。帰宅の報を受けて直ぐ冊子を作りお送りしました。思いがけぬことだったのでしょう、とても喜んでくださいました。

翌年2月に高野山に行くと連絡があり、神戸でお食事を共にし、フェリーの時間まで再会を楽しみました。後に結婚したと通知があり、男の子が生まれたと知らされた後、音信が途絶えました。「もう二人目が出来ている頃では?」と時々思い出しておりましたら、今年久し振りに年賀状が来ました。其処には「また子連れでおち(旧姓)に戻りました。メールアドレスは変わりません。またメールくださいと書いてありました。いずれにしても彼女が幸せで居てくれればいいかな~と思いました。)



               12月15日 (金曜日)    
   20番 鶴林寺(かくりんじ)  21番 太龍寺(たいりゅうじ)

 

徳島県の2.3番の難所が今日のお寺です。男性もおちさんも先に宿を立たれた。おちさんは「お先に…」と挨拶をしに来られた。今時の若い人には珍しいなと思いました。今夜の宿も偶然ご一緒です。

今日は2つの山越えなので気が高ぶっている。しんどいけれど遍路道なのが嬉しい。数秒の間だけれど霰が降ってきて、見る見るうちに窪みを埋めたのでヒヤッとした。始から坂道だった。故に少し登っただけで昨夜の宿のある村が眼下に見下ろせました。

「お鶴さん」といわれる20番 鶴林寺の「鶴」に早く会いたい、早く見たいと心は焦れども身体は進みません。やっとの思いで着いたお寺には「鶴」が二羽ひっそりと佇んでいました。私達二人だけだったと思います。その静けさが返って心せかせ、あたふたと次の寺を目指しました。



「鶴林寺」から一旦下りそして又登ったところに21番 太龍寺があります。その二つの山の谷あいの様なところに、せせらぎが流れ気持ちのいい場所がありました。そこで作っていただいたおにぎり弁当を頂きました。その間も何方も下ってこられませんでした。私達の前におちさんが居られるだけの感じでした。

確かこの写真を下ったあたりに坂村真民さんの「念ずれば 花開く」の石碑が立っていたと思います。

坂村真民さんとは読書会でお世話になっている愛媛県の詩人です。(当時はご存命でしたが、何年か前に亡くなりました)初めのころの詩は身近で納得のゆく詩が多々ありましたが、90歳を過ぎておられる現在、言葉が大きすぎてというか、宇宙を題材にされたものが増えて、又、病に臥せっておられる奥様の事等が多くなって、私としては余り共感を覚えなくなりました。石碑の写真も撮ったのですが上手に写せませんでした。

太龍寺への道は辛かったのですが、気持ちの良い道でした。山の頂山門を潜ってからは何故か風が強く杉木立を恐ろしい強さで揺すっていました。ロープウエイが通っていると言うので、見に行くつもりでしたが、風の強さに恐れをなして一刻も早く降りたいという気持ちになり、見に行くのを中止してしまいました。ロープウエイでは風に揺れて凄く怖かったそうだ。乗って登ってきた人が口々に言っていました。太龍寺では名の通り天井に「龍の絵」がありました。小さなお守りを買いました。

               
      本当は3X4の小さいお守りで 何時もお財布に入れているのです 
        何のご利益があるのか忘れているのです 
      お財布に入れているからお金持ちになるご利益?
          ヘビは嫌いだけど 龍は好きなんです  


心急かれて今夜の宿に向かったが、宿は案外近くに在って、3時には着いてしま居ました。おちさんは2時に着かれたそうです。ご主人は快く迎えてくださいました。何故こんな事を書くかと言いますと、昨夜の宿では3時ごろに着くと「早過ぎる」と文句を言うそうです。


12月15日  竜山荘  (4泊目)

お仲間はおちさん、自動車遍路のご夫妻と私達でした。ご夫妻は昨日から廻り始めて2日目で此処に来られた。私達は8日ほど掛けて、やっと此処です。明日には徳島を制して帰宅されるそうです。「一国打ち」と言う廻り方です。

お料理は品数も多く美味しかったです。てんぷらで小さな粒のカラフルなアラレが昆布について扇のように見えるのがあって、あまりに可愛いので「如何して作るのですか」とお聞きしてみると、既製品のもので、「只揚げるだけです」とそっけないお答えでした。この揚げ物一つでテーブルが華やかになっていました。明日は平等寺で打ち止めなので、ゆっくりできるので朝食も頂くことにしました。






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