ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

インド家庭料理教室 13回

2009年01月21日 | 今日この頃

              卓上花  一足先に春がやってきた!

           お正月の名残り…  赤ベコが左方に…


12月はお休みだったので約2ヶ月ぶりです。近所に住みながらお会いすることも無く、さりとて松の内は済んでいますから、今更「おめでとう」でもないだろうと「こんにちわ!」と入っていきました。

お料理を習いに来たのに私の目は四方八方のお花に夢中…。センスのいいお花が所狭しと並んでいる。パチパチと撮らせていただく。

一足遅れて、ショリー先生が妹さんと共に現れました。「今年もよろしく」とご挨拶。

今月のお料理は

☆ ベジタブル コルマ
  
  インドカレーといえばどうしても色が茶色っぽくて、派手さがない。でも今日のベジタブルコルマは人参の赤、カリフラワーの白、グリンピースのみどり、その上にココナッツミルクがベースになっているので彩が奇麗です。そして余り辛くない。

☆ チキンカレー 

  こちらは、たっぷりの香辛料入りで辛い、やっぱり辛い方がカレーを食べたと言う気がする。色は地味な茶色。このお教室が始まった第一回目に習ったそうですが、皆すっかり忘れている。ショリー先生が言われるには作り方が簡単だから始のメニューに組み入れたそうです。

☆  チャパティ

   今日の主食はチャパティ。何度も焼いているので皆もだいぶなれている。でも今日のは焦げすぎて(その責任の一端は私にもあります)、焦げの匂いが鼻についた。やはり茶色ぐらいがいいようだ。其れと、ギー(インドのバター)を塗らなかったからか、柔らかさにも欠けていたようだ。

☆ キャロットライタ

  11月に作ったときは材料全てをヨーグルトに混ぜて、冷蔵庫で冷やすだけだった。今日は人参の他に、ピーナッツとクミンシードを軽くローストして混ぜ込む。それだけの事なのに、お口の中でピーナッツとクミンシードがプチプチした感覚がグーでした。

カレー教室に来るまで、私はヨーグルトが苦手でした。でも此処では良くヨーグルトを使います。始は苦痛でした。でも皆さんが美味しいと食べておられるし、私が「嫌い!」といったら、いい気持ちがしないだろうと我慢して押し込むように食べていました。でも途中で気がついたのです、カレーで「お~辛い!」と思ったとき、その辛さを抑えてくれるのがヨーグルトだわと…。其れからは苦痛ではなくなりました。

去年鹿児島に行った時、従妹の家の朝食に当然のようにヨーグルトが出てきました。ハチミツと共に。「美味しい!」と思ったのです。帰宅してからのわが家の朝食にはヨーグルト、ハチミツ又はジャム添えが加わりました。変われば変わるものです。健康にいいと解っていても食べようとしなかった私が毎朝ヤクルトを食べるなんて…。

☆ クミンシードのお茶

  ただクミンシードを煮出して、沸騰すればそのまま置いて色出しをするというだけのものですが、黄色い色も奇麗だし、美味しいと思いました。ショリー先生が好きか嫌いか解らないからという事で少量作られたので、割り当てが少量だったのですが、もっと飲みたかったと思いました。



今は寒い日が続きますから、皆さん用事意外は家に居られるのでしょう、何方にもお会いしません。月に一度のこういう機会はとても大切な日でもあります。お教室でお元気なお顔を見てホットします。春になれば又「花見に行こう!」と声が掛かるかしらと期待しています。何故なら、大部分の方が「尼崎花いっぱいの会」のメンバーでもあるからです。
  


  
  
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二人して天井張り

2009年01月20日 | 今日この頃


     10月桜 (三十三間堂)  一年前に寄贈されたばかりの若木です 
               秋に咲くはずが真冬に咲いて



今日は寒かったようですが、私達は汗をかいていました。実は「天井の張替え」をしていたのです。年末に壁紙の張替えをしたときに、序でに隣の部屋の天井を張り替えてもらおうと「どの位かかりますか?」と聞きますと「10万円はかかります」4畳半です。本間ですから、今の建売の6畳に近いと思います。でも10万円は高い止めたと思いました。

主人が「前にした事があるし、自分でする」と言い出しました。以前といっても20年位前の話です。60歳そこそこと80歳では違います。確かにそのときは6畳の間を1人で張り替えました。でも今度は、その時のように体力がありませんから、私も手伝わなければならないだろうと思いました。

条件をつけました、私のスケジュールに合わせて欲しい。天井板を買いに行く時に、早速約束は破られました。渋々ついていったのですが、その時も「張り替える時は私のスケジュールに合わせてよ」と言う約束でした。

所が今朝「今日張り替えるで~」「私のスケジュールにあわせる約束だったよ」「嫌やったら、1人でするわ~」出来るはずがない、天井板を1人で脚立に乗って持ち上げられるはずがない。渋々手伝うことにしました。

まず天井板を外します。そうしながら、私に「釘ぐらいやったら抜けるやろ、抜いてか」地面にあるものなら容易いことです。でも釘は桟に刺さっているのです。抜く為には脚立に乗らなくてはなりません。私は異常に脚立が怖いのです。

でも早く仕上げる為にはと、恐る恐る登りました。釘の抜き方も始は上手くありません。私は器用なのですか、大工仕事は駄目なのです。試行錯誤しながら、主人の言う「てこの応用」を試みながら、だんだん上手になってきました。「ギュー、スポン」と抜けます。その「スポン」と抜ける感覚が心地よくなってきました。

そうしますと、脚立が怖くなくなってきました。方向転換も出来るようになりました。勿論、落っこちて骨でも折ったら何にもなりませんから、動作は慎重の上にも慎重にとゾウガメのようにゆっくりです。

粗方抜き終わりますと、板を外し終えた主人が「後はするから、桟を拭いて!」と仕事を言いつけます。「1人でするゆうたんは何処の誰や?」と心の中で毒づきながら拭きました。

天井板を桟の中心で継ぎ目が隠れるような寸法に切ります。その板を脚立に乗った主人に手渡します。二枚目からは凸と凹を組み合わせて二枚重なったところで釘で桟に打ち付けて止めます。其れを繰り返すわけです。

汚れを防ぐ為に新聞を敷いていましたが、その上のゴミが邪魔になるし、かえって仕事がやりにくいし、新しく張るのは寸法に合わせて板を切る時のゴミぐらいでゴミは出ないと思ったので、掃除をしようと提案しました。

掃除をしている内に日が暮れてきましたので、残りは又明日と言うことで、2/5ほど張って止めました。明日には完成するでしょう。因みに天井板は1万6千円にお釣がきました。二人の労働賃金は8万4千円と言う事になります。定額給付金より多いな~。
                               (950回)
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法住寺の大根焚き

2009年01月19日 | 一寸そこまで
今日は暖かくて、ストーブ無しで過ごしました。でも今夜からは気温も下がるそうです。明日は大寒、暫く寒い日が続くようです。
下は昨日の続きです。


        
  大根焚き  食べ物なのに何故「炊き」ではなく「焚き」と書くのでしょうか? 
    その場で気づいていれば、お訊ねするのに 帰って気づく間抜けな私


       大根が4切れにおオアゲさんがくるくる巻かれて1っ  
        食べられるかしらと心配な量でした 熱々です 
     猫舌の私はフ~フ~言いながら でもお汁も残さず食べました


     お持ち帰りの器      食べきれない方もお持ち帰りかな?

    ↑ こんな大なべが4っ 焚かれる薪の火の色が心を暖かくしました


一度は見たいと思った「通し矢」も見ましたし、満足して、門を出ますと、目の前に「法住寺(ほうじゅうじ) 大根焚き 100m南」の大きな看板が目に飛び込んできました。

「大根焚き?」「中風封じの?」「でも聞いた事の無い名のお寺?」色々考えながら、でも「大根焚き」はテレビで見たり、聞いたりしたことがありますが、実際に行ったことはありません。「行ってみよう…」

こじんまりとしたお寺でした。三十三間堂の門の内側にあったので、三十三間堂の塔頭かと思っていましたら、違いました。こちらのお寺のほうが古く(988年)後白河天皇の院政が行われた場所だったのです。後白河天皇のご陵を守ってきた由緒あるお寺だそうです。因みに三十三間堂は(1163年)建立だそうです。
今はお寺の東側に位置するご陵は分離されています。

大石内蔵助があだ討ちの祈願に立ち寄ったお寺でもあるので、討ち入りの12月14日は義士大祭が行われ、舞子さんの献茶や、式後には「討ち入りそば」が振舞われるそうです。忠臣蔵大好きの私にはいい情報です。好きと言いながら、東京の泉岳寺も行っていませんし、赤穂の義士祭にも行っていません。だから私にとって、赤穂義士は実在の人たちと解っているけれど、物語の人でもあるようです。

法住寺の「大根焚き」は「中風封じ」と言うのではなく「無病息災」と言う事のようです。此処のは護摩木とセットになっていて、振舞われるものではありません。

記された護摩木が沢山積んでありましたから、それだけの人が「無病息災」を祈って食べられたと言うことです。護摩木には、色んな言葉の見本が書き出してありました。私はその中から「家内安全」を選び、名前、年齢を書いて納めてきました。
これも私にとっては初体験です。塔婆は書いても護摩木は書いたことがありませんでした。

まずご本尊さんにお参りしました。不動明王さんです。ここでもお坊さんが居られて、下げた頭をコツンと、こちらは楊ではなく錦織の布に包まれたものでした。

薪で焚かれたお大根は芯まで熱くて、中々冷めませんでした。オアゲさんは別に煮ていて、盛り合わせるだけですから、大根はあっさりしたお味付けでした。

京都にいる間は雨にあいませんでしたが、立花に着いてから傘を差しました。午後からの娘さんたちの晴れ着は大丈夫だったのでしょうか?
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第59回大的全国大会(通し矢)

2009年01月18日 | 一寸そこまで


三十三間堂に「楊枝(やなぎ)のお加持(かじ)」を受けるのと「通し矢」を見る目的で行って来ました。昼から雨と言う事で早く行って早く帰ろうと思いました。

まずはご本堂にお参りしました。此処のご本尊様のお顔はとてもいいです。奈良の大仏さんとは比べ物になりませんが、観音様としては大きいほうだと思いますよ。

15分ほど列に並んで「楊枝のお加持」を受けました。本尊のご宝前で7日間お祈りした浄水を、やなぎの小枝で参拝者にそそぎ、無病息災・厄除開運のご利益を授けていただくのです。

浄水をパラリと頭に掛けられるのかと思えば、コツンと言う感じで小枝が頭に触れました。実際に受けてみないとわからないものですね。

通し矢を見に行きました。まず集合場所へ、始は男子の部です。

 何と地味な光景 一寸ガッカリしました 男は白と黒と決まっているのでしょうか  
                 参加数 908名


       足がかりのいい木?の上に登って撮りました
人垣が何重にもなって弓の先しか見えません。「折角来たのに…」と思っていると。木組みが在って、そこに登ってみている人が居ました。「見えますか?」「見えますよ。折角だから見てみますか?」「見たいです」その人は降りてから「私が支えてあげますから」と付き添ってくださいました。一人ならもっと沢山撮りたかったのですが、人様の親切に甘えているのですから、2枚だけとって、一寸見ておりました。心から「有難うございました」とお礼を言いました。

女性は11:20分からですから、1時間ほど時間があります。その間に腹ごしらえをしておこうと思いました。何時もは静かな前庭に屋台が並んでいます。私は「焼き蕎麦」をベンチで食べました。


    女子のこの華やかさ  二十歳の春… 参加者数は 930名
<
   上下が黒いのは1cmに満たない隙間にレンズを押し当てて撮ったからです 
               私の執念の一枚です


見学席に行きましたが、勿論見えません。矢が的に向かって飛ぶのは男子の時に見ました。一回に6人一組で矢も時間をおかずに6本、1人2本ですから12本が目の前を飛ぶのです。当たったか当たらないかは、直ぐ表に○Xで現れます。私が見ている間には○は一本だけでした。

せめて弓を絞る音、矢が放たれた音ぐらい聞いて帰ろうと思いました。「キリキリ…、シュッツ」と言う音は聞こえました。でも悔しい。見てみたい。私は又本堂に戻りました、薄暗い回廊を人の波に逆らいながら、どこか見えないか…。見つけました。戸板の隙間を見つけたのです。1センチとありません。でも目を近づけるとはっきりと見えます。見えるという事は写ることでしょう?夢中で撮りました。

薄暗い所に私がうずくまっているものですから、不思議に思った人が近づいてきます「通し矢が見えますよ」「ウワ~ほんとに見える、これで十分やわ。有難う」って10人以上の人が喜んで見ていかれました。人様にお世話になって、又私も人様に喜んでいただいた一日でした。


     振袖の陳列ではありません  弓を番えた形を写しているのです  
左から3番目の人の足を見てください ちゃんと番える時の足幅になっています
          この人が一番上手なのかな? 
    一度でも弓を引いた私だからこんな見方をするのでしょうね


           弓を引くときは袂は襷でこのように束ねます 
          襷はもう少し太いほうがいいのにな~と思いました
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告 白

2009年01月17日 | 読みました

              金のなる木  幾ら見ても可愛い 
            このは年末から遅れて咲いた親木の花  
    挿し木をした木のほうが花も沢山そして11月ごろから咲き始めました





阪神淡路大震災から14年目の今日。今朝5時46分、不覚にも私は夢の中にいた。毎年5時過ぎには目覚めて、その時刻を待つのが常だった。

私は目覚まし時計のお世話になったことがない、起きたいと思う時刻の1時間前には目覚めると言う、自分の頭の中に目覚まし時計を持っていた。その目覚まし時計も狂ってきたのだろうか、今朝起きることが出来なかった。

その時間になると私は目の前の壁を見つめる。この壁がメトロノームのように左右に揺れた。寝間から這い出そうとした主人に「そのまま寝とき!」と声をかけて、私もフトンの中にいた。何が起こったのか、わからなかった。地震だと気づいたが、あまりの揺れの大きさに、かえって落ち着いていた。諦めの気持ちだったろうか。肝が据わってしまっていた。

「大変な事らしい」と感じたのは、息子が「大丈夫か?!」と2階の私達のところに駆け上がってきた時だった。幸いなことに私達の寝室にはテレビ以外の家具はない。その大きなテレビが前方にストンと落ちていた。もしテレビの傍に寝ていたら足の1本や2本は折れていただろう。

どの位経ってから下に降りたのか覚えていない。この地震の場合、始に大きな縦揺れがあった為、2階が潰れて1階に居た人が押しつぶされたと言うケースが多かった。でも自分の家を信じていたのか、あの日から当分の間私達は階下で寝た。

頻繁に起こる余震の為に何ヶ月も着のみ着のままで寝ていた。お風呂も着る物を手元に置いて、すばやく入った。

幸いなことに電気は間もなくついて、テレビで、生田神社のお社の屋根が地面にかぶさっているのを見た「何?これ!」そのとき広範囲に大きな地震があったことを知った。

水は幸いなことに神戸に汲みに行ったばかりで沢山あった。食事に不自由したのかしなかったのか、その頃のことははっきり覚えていない。スーパーに買い物に走ったのは覚えているが、粗方の棚は空っぽだった。残っている食べられるものを考える事無く買った覚えがある。

毎日余震が数えきれないくらい在った。家の前の道路に入った亀裂は今もそのままである。だからあの地震のことは何かにつけて始終思い出している。でもやはり記憶はだんだん薄れていくのだろう。

14年前の今頃何をしていたのだろう?きっとテレビの前で地震の情報を見ていたのだと思う。地震が来た時の用意なんて何にもしていない、イザと言う時持って逃げるなんて事は出来ないことを知っているから…


            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

           告 白       湊 かなえ

第29回小説推理新人賞を取った作品です。圧倒的な筆力 機密な構成 デビュー作とは思えない完成度 脅威の大型新人現る!って書かれている。

中学の3学期の終業式で娘を亡くしたシングルマザーの担任教師がH・Rで今日で退職することを話し、娘の死について語り始める。

「愛美は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです…」

この衝撃的な語りからイニシアルとはいえ名指しされた生徒二人と学級委員長。名指しされた生徒の母と姉、夫々の立場から、「愛美の死」をめぐって起きたことに対して「告白」する。最後には又、その教師の語りで結ばれている。

推理小説だから内容を書かないが、思いがけない復讐が待っていた。「愛美の死」を中心に人それぞれの立場から語るので、同じ場面が同じ描写が何度も出てくるのが、一寸気にかかったかな…。



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未来のオリンピック選手?

2009年01月16日 | 気にかかる

          チョコレートコスモス  (08-11-4) 
     花の会から頂いた苗に一輪咲きました 今年が楽しみです

    
    
               アロエの花  (08-12-8)


人間様は寒い寒いと震え上がっているのに、木々の芽吹きは始まっていますよ。桜の蕾も枝からツーんと芽を出しています。寒がりの私は年々寒さが身に堪えます。

頑張って唱歌の学校に行って来ました。「スキーの歌」を練習している時、先生がこんなお話をしてくださいました。

ウインからの帰りの飛行機の座席が3人掛けで、その窓際の席に男の子が座っていたそうです。食事の時間になり、満席の為、両親と離れ離れになっているのだと思ったので、のりこ先生が席を替わってあげようかと言ったそうです。すると「僕は1人です」という答え。「日本語で話すのは久し振りです」と喜んだので、色々話をしたそうです。のりこ先生も1人息子を家に置いていたので同じ年頃の子と話したかったそうです。しっかりと大人と会話が出来る子供でした。

少年は6年生。スキーの合宿の帰りだそうです。ウインからドイツへ乗り換えて、そこには合宿先から車が来ていて、その車に4時間乗り、1週間スキーの合宿をして帰宅するところだそうです。6年生の男の子が外国の飛行機を乗り継いでの一人旅、驚いて居ると、もっと驚くことが、4歳年下の2年生の弟は大会で優勝して、一日遅れて翌日一人で帰ってくると言うのです。「何で、一日待ってあげないの?」と聞くと「僕は明日始業式ですから」といったそうです。

しっかりしていると言うか、旅なれているのにも驚いたそうです。機内食もスマートに大人顔負けに食べたそうです。ジュースも欲しい時はちゃんと乗務員に、日本語的発音ではなく英語的発音で頼んだそうです。ドイツ語が出来るのか?と聞くと、子供は色んな国から来ているので、身振り手振りで結構会話は成り立つそうです。

機内食でお八つ的にカップヌードルの小さいのが出た時です。其れを食べ終えると、後二つくださいといって、合計3個ぺろっと食べたそうです。「そんなにカップヌードル好きなの?」訊ねると、「カップヌードルは身体に悪いからと家では食べさせてもらえないから…」と答えたそうです。

6年生の子が、何故ヨロッパまでスキーの合宿をしにいくのか? 其れもただ1人で? 何故そこまでするのか? 雪のない国の子供ならわかりますが、日本にはいっぱいあります。すると「次の次のオリンピックに出たいから。次は年齢制限に引っかかるけど、その次なら18歳です」だんだん選手の低年齢化が進んでいますが、スキーの世界もそうなんですね。

優勝した弟のほうはその又次でないと年齢に達しません。10年したら兄弟スキーヤーが活躍しているでしょうか。因みにお父さんもスキー選手だったそうですよ。

有名大学に入れるために教育に費用をかけるのも、この子達のように早くから、その才能を延ばす為にお金を掛けるのも、いずれにしても優れた頭脳(才能)とそれにプラスお金が無いと花開かないんだな~と思いました。
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なんばパークスシネマ

2009年01月15日 | 一寸そこまで

               わが家の小型ハボタン 
     初めて種を蒔き育てました 小さいです15センチほどです




             バス停のおじいさんの白系葉ボタン 
            大きくて縮れていて とっても華やかです



昨日、大阪難波にある「なんばパークス」にある「なんばパークスシネマ」に行って来ました。「シネマ歌舞伎」を見に行ったのです。山田洋次監督が、実際に歌舞伎座で歌舞伎の上演中に撮影したものです。この日本にしかない、又その時代のすばらしい役者を残しておこうと撮られたのでしょうか…。

今日の演題は「連獅子」と「らくだ」でした。どちらにも勘三郎さんが出ていました。

私の心に一番残っているのは「緞帳の華やかさ」でした。歌舞伎座は来年建て直されますので、今の歌舞伎座は間もなく消えてしまいます。どの様に建て直されようと歌舞伎の引き幕は昔ながらの黒 柿 萌黄の3色幕に代わりはないでしょうが、
緞帳は変わるのかもしれません。是非今の緞帳を見ておきたいと思っています。

歌舞伎座が建て直されると聞いた時から、絶対いくと決めているのですが、切符が取れるかと言う心配、又取れたとしてもその日に支障が生じないかと言う心配。それなら一幕見席なら当日でいいのだけれど、1~3階のロビーや売店には行けないらしい。それでは楽しみが半減する。どうしてもと言う時は受付で相談すると、幕間以外の時間に入れるらしいが、ロビーや売店はやはり人波あってこそと思うしね~。ロビーの華やかさも味わってみたいし…。

3月の演題が「元禄忠臣蔵」なんだけど、好みの役者さんでないし、見たい場面でもないし、「忠臣蔵」を又するかな?と待つことにします。

シネマ歌舞伎から話がそれてしまいました。「らくだ」は面白かったですよ。「らくだ」を歌舞伎で見たのは初めてです。確か落語からですよね。勘三郎さんの二枚目半振りがとてもよかった。映画ですから、実際の顔の何倍もに写るわけで、表情が良く解ります。テレビの映像では見ていますが、こちらは実像の何分の一です。
映画とは迫力が違います。

「連獅子」は勘三郎が親獅子、勘太郎と七之助の子獅子です。白い毛の親獅子と赤い毛の子獅子の「毛振り」が見事に三人揃って美しい。勿論コツがあるのでしょうけど勘三郎さんあんなに頭を振って大丈夫なのでしょうか? 何だか心配になってしまいました。画面が大きくど迫力だからそう思うのでしょうか。

其れと何時もなら「囃し方」の事は余り関心を払わないのですが、シネマではお顔もアップで写りますし、三味線の一番と二番の方は顔つきがそっくりだから、親子かな~とか余計なことも考えます。

長唄で情景描写がされるのですが、何時もなら言葉としてより、音として聞いているだけなのですが、この度は日本語の字幕が出ますから、語られている言葉が良く解ります。

役者は顔が大きいほうが見栄えがしていいと昔から言われていますが、勘三郎の面は申し分なく立派、勘太郎、七之助は今風に小振りの顔です。

私は勘太郎がお気に入りです。顔は美男子とは言えないですが、踊りは上手いと思いますよ。ピタッと決める時など、手の位置足の位置などの美しさは一番だと思いますが…。違います?

なんばパークスでお昼にお好み焼きが食べたかったのですが、でこぼことアチコチにお店があるので、探しつかれて、蕎麦屋さんに入ってしまいました。この間行った、西宮ガーデンも似たようなものです。こちらは南海の球場後ですしね。

久し振りに心斎橋まで1駅歩いたのですが、この間までポツリポツリと残っていた老舗店も見当たりません。神戸とは又違った、落ち着きのある商店筋は壊滅、何処にでもあるざわついた繁華街になってしまっていました。

「シンブラ」と言う言葉があったくらい心斎橋をブラブラ歩く、老舗(専門店)を覘きに行くのが楽しみだった商店街は、今はない。
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医師も色々

2009年01月14日 | 気にかかる



                    姫路の凧  
        高い天空の凧を写すのですからボケボケが多いです  
          望遠つき一眼が欲しいのはこんな時です



昨日、今年初めてホームドクターに薬を貰いに行ってくれた主人が帰ってきて「とうとう息子に代変わりするらしい」と言いました。今年の秋にはと言う事は噂として聞いていました。でも秋の交代はありませんでした。私はホットしていました。50年近く(子供が小さい時は頻繁に)お世話になっているのですから、たとえ息子さんとは言え、交代は延びて欲しかった。

今大学病院の医師の成り手が減っているとか言われているので、そのまま勤めていてくださればいいのにな~と思っていた。

とうとうやな~。勝谷誠彦さんの弟さんの代になったのです。今のところ血圧の薬だけなので、夫婦で代わりばんこに相手の薬も貰いに行っている。そうすれば1人は一ヶ月に一度行けば済むからです。今日から半月後に私が行く時初めて見てもらうことになります。

昨日のところは、息子さんに椅子は譲っても、診察室の辺りをまだウロウロしておられたらしい。先生は趣味が何もないと言っておられた。これからの毎日を、何をして過ごされるのだろうか… 他ごとながら心配しています。

息子さんのように、大学病院のサラリーマン医師から、親の築いた病院を受け継ぐと言う医師も居れば、同世代でも「プロフェッショナル」でに出ておられたような「地域医療」に一身を捧げる医師も居る。

その人、なかむら先生は45歳、17年間福井県の人口3000人の村の「地域医療」を17年間続けている。村人の「良い人生やった」の一言の為に頑張っている。

本当は外科医になりたかったという。自冶医大では卒業後一定の期間、過疎地での勤務が義務付けられていて、この地に勤務したそうだ。自分ひとりで全ての病気を見なくてはならない為、色んな診療科の勉強を続けた。外科医希望だっただけに簡単な手術なら診療所でやってしまう。

時間が出来れば患者のカルテを見る。「病ではなく人を看る」為に。「その人らしい一生を支える」為に。「最後まで家で家族と暮らしたい」の希望で4割が在宅医療を受けている。

1人医師のプレッシャーは無いかの問いに「ある。プレッシャーより自分を頼ってくれることが自分の心の支え、お前しか居ないと…これほど意気に感じることはない」

3年ほどしたとき、外科医に戻ろうと思ったそうです。その時、誤診と言うか、一つの事故が起きた。「くも膜下出血」を見抜けなかった。その人は長時間運転で肩が痛いと言って来た。痛み止めの点滴をして帰したが、夜中に呼び出された。「くも膜下」は激しい頭痛の前触れがあるが、肩の痛みと言うことで見抜けなかった。

誤診ともなれば、わずらわしい裁判になるし、補償問題も起きるし、自信もなくしたし、医師を止めようとまで思ったそうだ。しかし入院先からの帰りの自動車の中で「先生、夜中に起こして悪かった。こんなことは誰でもあること、お互い様だ」と思いがけない優しさを示された。「お互い様だ」この言葉が「地域医療」に居ずかせたと言う。

この村で「人に対する優しさ」を教えられたと言う。一日60人以上に患者を診る、昼食時間も30分しかない、45歳若いからできるのかも知れない。今後に続く医学生の見学者がボチボチ増えていると言う。そんな人が少しづつでも出てきてくれればいいな~と思っている。
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謎手本忠臣蔵

2009年01月13日 | 読みました

                変型和凧   百足(ムカデ)凧


                  南国日の出鶴  
ジャンバーの背中にこの図がプリントされて通販されていました 買う人あるの?



        本部席から色々説明があるのですが… 何凧だったけ?


今日も底冷えがする寒さだった。朝起きた時、火の気のない部屋は3度だった。でも氷も張らなければ、雪も降っていない。子供が生まれた頃、オシメを干すと、直ぐ板のように凍りついた、今は洗濯物が凍りつくような寒さには出会いませんが…。

凧揚げを見に姫路に行った11日帰るバスの中で雪が降ってきた。ほんの20分程の間だし、窓越しに見ただけなのですが、小雪に混じって時々大きなボタン雪もふわふわと降っていた。

白から連想して、今朝の新聞を見ますと、昨日の成人式、着物の上には白い肩掛け?首巻?…。そろいも揃って制服のように白いものを巻いている。何故?皆と一緒だと安心だから?何時頃からこうなったのだろう?幅や素材は違うのでしょうが、もう少し個性があってもいいのでは? 外国人の目には如何写っているのでしょう…。


          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       謎手本忠臣蔵  上下     加藤 廣


忠臣蔵の大フアンである私はとても楽しみに手元に来るのを待っていました。年末から年始にかけて中断したとは言え、年末年始は3週間と言う貸与期間の為、やっと読み上げました。

大筋は変わらず、今まで不明のところの謎を解いてくれる本だと期待したのですが、違いました。今までの忠臣蔵と違い悪人が善人に、善人が悪人にの変化についていけませんでした。

たしかに色んな沢山の古文書から作者なりに割り出されたのでしょうが、そしてこの本に書かれたほうが真実に近いとしても、私は元の忠臣蔵のほうを真実と思いたい。

本文には「あだ討ち」と言う言葉は一切使われていなかった。「復讐」と言う言葉で書かれていたと思う。私の中では「あだ討ち」と「復讐」は上手には言えないけれど核になるものが違うような気がしている。

戦後、日本に来たマッカーサー元帥は「日本人の復讐する心」を恐れたと言う。だから戦後、7~8年、もっとかな? 「忠臣蔵」は映画も芝居も禁止された時代があった。私は小学校の4年生だったが、母に「何故?」と聞くと「忠臣蔵のようにあだ討ちされるのが怖いんだって」と答えたと思う。

赤穂市に調査を頼まれた文芸評論家が「忠臣蔵」に関する本を10数年かかって調べたそうで、その時点でも書かれた物は800点以上あったそうだ。

この本には昔からの「忠臣蔵」の見せ場が一つもない。この本で初めて「忠臣蔵」に接した方は、今までの「仮名手本忠臣蔵」もあわせて読んで欲しい。夫々お好きな作家の書かれたもので読んでくださればいいと思う。今では900種類もあると言われている本の数です、お好きな作家の一人や二人が書いておられると思いますよ。

900作もあるのですから、その全てというわけではないでしょうが、ヒットした「忠臣蔵」の本は世情不安定な時にベストセラーになったそうですよ。この作者も「偶然だと思うけど、世情不安定な昨今だから、あやかって売れて欲しい」と本音を漏らしていました。

仮名手本忠臣蔵(昔からの忠臣蔵)の名場面を思い出します。やっぱり私はそれぞれの名場面に惹かれます。涙なくしては見れない、読めない人情話の名場面が私は好きです。  
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東関親方と言うより高見山さん

2009年01月12日 | 思い出話

              子供の喜ぶ凧もあがりました 
       ポニョの前では子供達が集まって記念撮影していました





今朝の新聞に姫路城の凧が揚がっている写真(私達が着いた12時前にはもう無かった)と共に、姫路の凧揚げのことが小さく載っていました。凧揚げに最適のお天気だったそうです。そうかもしれません24帖の凧が上空高く揚がったのですから。

昨日から相撲の初場所が始まっていたのですね。朝青龍が勝って少し人気を持ち直したとか…。元貴乃花の部屋に今年双子の新入生があったそうですね。お互いに切磋琢磨してお相撲を面白くしてくれるのを待っています。

そういえば昨日の京都女子駅伝でも双子の姉妹が大活躍で京都府の優勝に貢献したようですね。期待された我兵庫県は3位だったようです。中継を聞くつもりでラジオを持っていきましたのに、凧に夢中ですっかり忘れておりました。

運動関係で、こうして同じ競技に双子の活躍があるという事は「一卵性双生児」だからでしょうね。同じDNAを分け合っているのですものね。同じ双子でも「二卵性双生児」の場合は一つの卵子にたまたま精子が2匹同時に到着し入り込んだと言うだけですから似ないのでしょね。顔も似ないのかな~。相撲の双子の兄弟は体つきも同じだそうですが、一寸の違いを親方は見つけたようですよ。

昼に何気なくつけた番組に元横綱曙さんが出ていました。久し振りでした。昨日、朝青龍が勝って、その解説の為の様な出演でした。曙さんが言うには「朝青龍の入り口での待機の場面で『今日は勝つ』と思った」そうです。そんなものでしょうかね。素人の私でも「今日は勝ちそう」と思いましたよ。気合が入っています。でもね、「日本人が情けない」と心が落ち込みます。

高見山さん曙さんにしても相撲を止めても日本に住んでおられるのですね。帰化されたんですから当然と言えば当然ですが。「故郷は遠くにありて思うもの」か…。

私は国技館に2度見に行っているのですが、そのときの切符のモギリは高見山さんでした。「写真を撮らせていただいていいですか?」「アラ!私恥ずかしいわ!」と茶目っ気たっぷりに目線をくれました。残念ながらピンボケでしたけど。

長男の弓太郎(弓取り式から取ったのかしら)は相撲を諦め、単身アメリカに渡ったそうです。今は元阪神タイガースの井川慶選手の通訳をしているんですって。

今人気の高見盛も育てたのですね。国技館には人気力士の四股名の付いたお弁当を売っているのですが、私の行った当時は高見盛のお弁当が一番人気でした。

高見山さんも5月場所の後6月には相撲協会を定年退職だそうです。という事は60歳と言うことですね。曙を見出し横綱に育て上げた功績は大ですね。

コメント (6)
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