ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

ナビゲーターとドライバー

2006年04月12日 | 今日この頃
              紫  蘭
       何時の頃からか我家の住人である
         増えもせず減りもせず


風邪を引かないようにしようと言った、舌の根も乾かぬ間に
ゴホンゴホンとやっている。

ホームドクターとのお付き合いはかれこれ45年になる。
初めは子供がかかり、私は年に一度か二度の風邪で通う
程度だった。姑を看取っていただき、現在は主人と私
高血圧でお世話になっている。

私は若い頃は低血圧といわれ、まさか自分が高血圧になる
とは思いもしなかった。3年前遍路の途中で突然鼻水垂れ
流し状態になり、夜は微熱状態、帰宅して念のため診察を
受け、芳しからぬ病名を聞く。それと同時に先生から
頼まれた。「息子(阪大)の恩師が東北大学で高血圧の
研究をしておられ、そのモニターを探している。それも
古くからの患者は駄目で、新しい人が欲しい。受けて
もらえないか」というのである。これからお世話になる
お医者様の事私は快諾した。東北大貸与の血圧計を頂、
朝,寝る前とはかり、これまた支給されたノートに記入
二週間に一度血圧計と共に持参する。医院のコンピュー
ターが東北大に繋ぎ、指導を受けると言う寸法である。

二年程して、薬を飲みながらとはいえ、状態は安定した。
所が去年の9月、目の前で起きたショッキングな出来事に
より私の血圧は上がり、その位置で不安定になった。早
半年になるが高止まりのままである。安定していた血圧が
乱れだして、先生が不思議がられるので、私は9月の
出来事を語り、この影響はないかと聞いた。在るだろうと
言うことで、理由がわかり先生も納得された。
二年掛かりで安定したのだから元に戻るのもそのくらい
掛かるだろうと、気長に考える事にしている。

二年ほど前右のお尻の辺りが痛くて、立ってすぐ歩けない
状態になったことがある。一週間に一度が一日に一度になり
立ち上がる毎とエスカレートしていった。どういうわけか
正座から立ち上がるときは痛まないのに、椅子から立ち
上がる時のみ、その状態は現れる。日に日に悪化するのに
たまりかねて整形の門を叩いた。

「先生立ち上がるときお尻が痛いのです」「肛門の辺り?」
「いいえ、この辺り(私はお尻のへっこんだ辺りを手で示す)
「あ~。腰ですね」「腰ではありませんここです」
「医学的にはそこも腰です」「えっ!」「レントゲンを
撮りましょう」結果恐れていた骨折、ひび割れはなく
「筋肉痛でしょう、痛み止めを上げましょう」って事で
5日分痛み止めを頂いた。2回飲んだ辺りで痛みを感じなく
なった。薬はきついので胃を荒らすこともあると注意を
受けていたので、自分の感覚で薬の回数を減らしていった。

でもまだ私は「お尻の辺り」と思っている。私の感じでは
腰とはウエストの辺りと思っている。私の痛んだお尻の
辺りが下がる事を「お尻が地球の引力で下がる・・・」と
言うけれど「腰が地球の引力でさがる・・・」とは
言わないと思うけど、これへ理屈?

おかげさまで今ではほとんど痛まなくなったが、1万歩歩き
が3日続くと、少し痛む事に気が付いた。それからは自分の
身体の調子によ~く耳を傾けるようになった。

私は自分の身体を運転するドライバーで、お医者様は
よりよい道を教えてくださるナビゲーターだと思う。私の
身体は最終的には私しか解らない。だからより注意深く
体中のエンジンの音に耳を傾け、ポンコツにならないよう
心がけたいと思う。最低時速でも良い周りの景色を
見ながら静かな晩年を送りたいと念じている。


☆ 14日早朝からちっちゃな旅に出ます。
  20日までお休みいたします。














コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風邪かな? 

2006年04月11日 | 今日この頃
              キンギョソウ
           ジャイアント系で大型です
        3年前に種から育ってた、ご先祖様用
          色合いが優しくてお気に入り


「一ほめられ 二憎まれ 三惚れられ 四風邪引く」
といいますがその何倍もクシャミが止まらない事がある。
クシャミって気持ち良いと思いませんか?
風邪とか、身体に悪い前兆を考えなければ・・・

二三日前からくしゃみが出たり、首筋の少し下辺りが
ゾックとしたりする。思い出したように薬を飲んでいる。

ジムのインストラクターは冬の間中私達に言い聞かせます、
「喉をカラカラにしてはいけません。風邪の菌はカラカラ
の喉が大好きで、乾いている時にはピタッとひっつきます。
だから少しずつで良いですから水分を補給してください、
泡の出る水(ビール)は駄目ですよ!」

私はエアロは一時限に出ます。早い時間は熟年向きです。
時間が遅くなるにつれて若向きに激しくなります。
子供の年代の先生に諭されながら動いています。
「負うた子に教えられ」です。

私は小さい頃から身体の弱い子供でした。
喉と胃腸が弱かったようです。
扁桃腺が大きくて風邪を引くとすぐ39度の熱を出します。

結婚した後でした、歯医者さんに行った時「立派な扁桃腺
ですね」といわれた事があります。主人のを見せてもらい
ましたら、中央の口蓋垂の両側はペタンとしているのです
ね。私のはお金持ちの家の窓のカーテンよろしく重厚に
ぶら下がっています。なるほどと合点。ビールスの訪問を
受けるとそのカーテンが真っ赤に変色して、結果として
高熱を出します。

湿風器?耳鼻科に行くと喉に蒸気を掛ける機器、家には
あの家庭用が在りました。蒸気が水滴になって服を濡らす
ので喉にタオルを巻きます。息苦しいのでするのが嫌い
でしたが、「お菓子を上げるから」の母の言葉につられて
かけたものです。小さい時から甘いものに目のない私です。

余り熱が高いとお医者様が往診に来られます。
むらせ先生の病院は花隈の坂の上の左手にありました。
先生はメガネを掛けて、中折れ帽を被り、診療カバンを
提げて入ってこられます。私はいたずらを考え付きました。
「どうかな?」と布団を捲くられた時、猫が飛び出せば
どうかな?・・・って。

私はその時を待っていました、先生が布団に手を掛けられた
時、抱いていた猫をぎゅっと抱きしめました。お布団が
めくられたと同時に私は猫を離しました。窮屈だった猫は
先生の方に向かって飛び出しました。大成功!
先生は本当に驚かれました。

それで終われば良いのに先生の驚きが嬉しくてその後何回
も繰り返しました。先生も律儀に驚いて下さいました。
猫を見ると思い出す懐かしい思い出です。

同じ花隈に、ほそみ耳鼻咽喉科(今もある)がありました。
扁桃腺が腫れるとこちらにも行くわけです。手術した方が
良いということになったのですが、まだ小さいので
3年生位に切る予定でしたが、戦争が激しくなり、私も
疎開したりで、結局は切らないで現在も持ち続けています。
扁桃腺の方が先に年老いたのか、たまにちょこっと
痛みはしますが、静かに落ち着いています。

今日徹子の部屋に出た永六輔さんが、足首を骨折した時
先生に老人は「こけない 食べ過ぎない 風邪引かない」を
心がけるようにと言われたと話しておられました。

三っのない心がけましょう。










コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増えすぎたクジラ?

2006年04月10日 | 新聞から
              チュ-リップ  
       1月まで在籍したクラブの20週年記念例会が
         去年の11月に市内のホテルであった
        その時のお土産がチュリップの球根だった
       120名のお客様のお家でもう咲いているかな~
       我家で一番早く咲いたのがこのチュリップです


屋久島→種子島→鹿児島を結ぶ高速船「トピー4」が
クジラ?に衝突したって・・・驚きました。

何年か前クジラは哺乳動物だからって、捕鯨禁止と
叫んでいた時、私は特別鯨肉が好きというわけでは
ないけれど、日本人が少し食べるぐらいは良いじゃな
いのと思っていた。そこで私はこう言った。
「そんなに捕らないでいたら、終いに海の中が
鯨だらけになって、船と衝突するようになるよ~」

「当たらずとも遠からず」の事件が起きた。
長崎の方でもクジラらしい衝突事件が起きたと言う。
私が言った時は少なくとも大海原の出来事として
思い浮かべていた。今回のように佐多岬沖の海上等
陸地に接して起こるとは思わなかった。

クジラが異常繁殖していなければ良いが・・・
唯仲間にはぐれた一匹だと良いのですが。

「トッピー」には何度か乗った事がある。
屋久島に帰る?(本籍がある)時である。

初めはフェリーを使っていたが、湾を出て外海に
出ると揺れるので、気分が悪くなる。初めての時は
1等にのって気分が悪くなった。船室が上にあるため
船の上下運動が目に見えてしまうからだと思う。
島の人に話すと「船は3等がいいよ。船倉でじ~っと
寝てるのが一番」と言われた。

「トッピー」が就航してからは時間が短くてすむし、
値段はフェリーより高いが、船が海の上に浮いた状態で
進むのでゆれを感じないので利用していた。

平成16年の夏休み孫娘が海で泳ぎたいと言うので、
それなら綺麗な海で泳がせてやりたいし、海亀の孵化も
見せてやりたい(自分が見たい)とおもい、孫娘とその兄、
私たち夫婦と4人で屋久島の夕日で有名な又海亀の産卵
でも有名な「田舎濱」に行った。

刻々と色を変える夕空を見ながらの床での夕食は最高!
生まれたばかりの子亀の可愛さも又最高だった。

屋久猿や屋久鹿のお出迎えも兄妹と喜ばせた。
土地の人に教えられた時刻と場所で待望の海で泳いだ
兄妹とおじいちゃんも楽しそうだった。

その時も行きはプロペラ機で行ったが帰りは「トッピー」
で帰ってきた。行きに「トッピー」を使わなかったのは
空から屋久島が地図のように丸い島であるかを
見たかったからである。

申し訳ないけれど、私たちが乗っている時でなくて
よかったと言うのが正直な気持ちです。
兄妹に怪我をさせては、その親にすまないと思うから。

お怪我をなさった方のご回復を祈りつつ・・・













コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元町通り 続き・・・

2006年04月09日 | 思い出話
               スノーフレイク
         このミドリのポチポチがなんとも愛らしい
            10年ほど前に我家に来ました

戦前の元町はすずらんの花を模った「すずらん灯」が
有名でした。でもこの花の形にも似ています。

10月にみなと祭りがありました。懐古行列があって神戸
ゆかりの人に、その当時の有名人が扮していました。

元町商店街としては、老いも若きも「みなと音頭」を
踊りながらの参加でした。私も踊りましたよ。
編み笠を目深に被り、浴衣を少し短めに着付けて
少し色っぽくけだしを覗かせていました。
音頭はいたってスローテンポでしたね。

「神戸みなとは 町から町へ ヨイヤサ
 みなと祭りの みなと祭りの 日が続く
 みなと祭りの 日が続く
 みなと祭りのヨイヨイヨイヨイ 日が続く」

勿論、お祭りの日だけではなく、盆踊りにも
「みなと音頭」は踊られましたよ。今はこんな歌も
何人の人が覚えているでしょうか・・・

現在はお祭りも5月に変更され、名前も「神戸祭り」
懐古行列はなく、色んなグループ単位の参加となり、
踊りもメインは「サンバ」と様変わりしました。

踊りといえばこんな事もありました。

1月まで所属していたグループの世界大会が
神戸ポートピアホテルであるというので
外国からの会員さんのウエルカムパーティーに
日本の踊りを見せるので参加募集が誌上にでました。
私は早速申し込み、お仲間に入れていただきました。

初めは自前の浴衣という事でしたが、
だんだん練習を重ねるうちに、浴衣を揃えましょう、
それでは帯も揃えましょうと本格的になりました。
扇だけは会の借り物でした。

踊りの先生は俄仕立ての集団に(平均55歳位?)
「あなた方は下手なんです。群舞には特別のしなは
いりません。笑顔を忘れないでください!」って、
覚えの悪い私達に稽古をつけながら「笑顔、笑顔」を
連発されました。短期間特訓の甲斐あって、
娘時代の盆踊り以来の私の舞台も無事すみ、
最後の「阿波踊り」まで参加し堪能しました。

グループの違う飛び入りの私を違和感なく仲間入り
させてくださったのは「コミュニケーション」を学ぶ
この会の方々だからこそと有難く、良い思い出です。
大阪日航ホテルの「解散会」までお世話になりました。
お一人ですが、今でも年賀の友でいてくださいます。

身体の動くうちに本場で「阿波踊り」を踊ってみたい。
息切れしたり、節々が痛むかもしれないな~
でも踊ってみたい!踊り大好きな私の夢・・・





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元町通り

2006年04月08日 | 思い出話
               肥後スミレ
        1~1.5㎝のたちつぼ系のスミレです
      スミレといえども独特の葉の形をしています
     一度枯らして先日又頂いた。ニューフェイスです


歩き遍路のオフ会「曼荼羅」のお仲間の岡田さんの
個展に行ってきました。今回が5回目で高野山へ結願の
お礼参りに行かれた絵なんです。写真を元に
コンピューターで書かれたものです。広重の浮世絵ばりの
版画調です。絵の中に何時も一人のお遍路さんがいます。
岡田さんご自身だそうです。

元町に久し振りに行きました。元町は私の故郷です。
小学校3年までと18歳から23歳結婚するまで居たので
色んな思い出があります。

幼稚園の頃だと思います。「窓際のトットちゃん」の
黒柳徹子さんではありませんが、私も「ちんどんやさん」が
大好きでした。元町は「ちんどんやさん」がよく来ました。
あの音を聞くと私はすぐ家を飛び出すのです。

その日の「ちんどんやさん」が面白かったのでしょう、
どんどん後からついていって三宮の「そごう」まで行きました。
「そごう」のそばに美容院があって母にくっついて来た事が
あるので「そごう」は知っていました。
子供心に遠くまで来てしまったと思ったとき、
ぞろぞろ付いていたいた子供は私一人になっていました。

「ちんどんやさん」のおじさんが気がついて「お嬢ちゃん、
もう帰ったほうがいいよ。一人で帰れるの?」「帰れない」
「じゃ~交番に連れて行ってあげるからね」近くの交番に
連れて行かれました。おまわりさんに色々聞かれて、
家の電話番号を知らなかったからおまわりさんが
家まで連れて帰ってくれました。

勿論家は大騒ぎになっていて、母にこっぴどく叱られました。
近くを探しにいっていたおじいちゃんは帰ってきて、
私を何も言わず、しっかりと抱きしめてくれました。

その翌日から迷子札をつけられました。
その迷子札は今でも手元にあります。
シルバーで4㎝ほどの楕円形で、裏に住所氏名が彫ってあり
表はその子の干支の絵が刻まれていますから、
一目でその子の年齢が解るという優れものです。
なぜか私が疎開をする時持って行ったんです。

私は生田神社の氏子です。生田さんのお祭りにお稚児さん
になりました。当時は人力車を連ねての稚児行列でした。
(戦後は小さなトラックに何人も一緒に乗っているのを見て
私のときは優雅でよかったな~と思いました)
小さい子は母親と一緒に、私は小学生でしたから一人で
乗りました。両側に稚児行列を見る人たちが居て、
元町4丁目に来ると、近所のおじちゃんおばちゃんが
名前を呼んで声を掛けてくれて、嬉し恥ずかしの思いでも
元町通りでした。
稚児の正装のお澄まし顔の写真が残っています。

我家では私の成長過程は写真に残しているのですが、
母と一緒のも一枚だけで、おじいちゃんとの写真は
一枚もないのが不思議といえば不思議です。
常に私一人のものです。そのアルバムを疎開していく
荷物の中に母が入れていてくれたので焼けずにすみました。

中には「第二国防婦人会」なんて印刷された襷を掛けて、
頭は日本手ぬぐいできりりと縛り、木製のバケツを持った
写真もあります。そんな時代だったのですね~。









コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またも 祖父

2006年04月07日 | 思い出話
               神戸花鳥園

おじいちゃんの着物・・・
らくだのシャツにパッチ、
夏の盛りは丸首シャツにステテコだけ?
外出の時はその上から単衣を着て、
三尺をくるりと巻いて、かんかん帽を被っていた。

おじいちゃんは何時も外出時は帽子をかぶっていた。
つるつる坊主だったからかな~。

たまにおじいちゃんも怒るんですよ。
すると私は悔しいので
「ツルツルピーカノハゲアタマ、ハイガトマレバ
チョットスベル」って歌うんです。
おじいちゃんがどんな顔をしていたか知らないのです。
後ろに廻ってあたまを蠅が滑ったように上から下に
指を這わせるんです。
「こら!」って追いかけてくるんです。
鬼ごっこになって、二人で笑ってお終いなんです。
私も自分が悪い事は知っているんです。
どうにか機嫌を直してもらって遊んでほしいのです。
口下手な私の考えた、不器用な方法だったのです。

どんな理由で魚崎に一人泊まる事になったかは
思い出せないんですが、大きなお兄ちゃんと
小さなお兄ちゃんのいる横屋(地名)に泊まったんです。

一人で心細かったし、寂しかったんでしょう、
その夜おねしょをしたんです。他所のおうちで・・・
私は「ごめんなさい」とおばさんに言えば良いことは
解っているのですが、はっきっり言えない子だったのです。
おじいちゃんが居てさえくれれば謝ってくれるのに、
そう考えた私は、そ~っと家を抜け出し走りました。

魚崎駅までは少し距離があったと思うのですが、
よく道を覚えていたなと思いますが、
おじいちゃんに逢いたい一心でした。
駅舎に入る事はせず、線路と道路を区切っている
コールタールで真っ黒な焼けぼっくいの杭の所で
しゃがんで待っていました。
駅員さんに声をかけられるのが嫌だったのでしょう。

しばらくして、小さい兄ちゃんが迎えにきました。
「お母さんが、きっとここだろうって、ごはんたべよ」
「おじいちゃんが来るの待ってる・・・」
お兄ちゃんが帰って、今度はおばちゃんが来られました。
しぶしぶ帰ったのですが、どうしても「ごめんなさい」の
一言が言えませんでした。

急いでご飯を食べて又駅に行きました。
おじいちゃんはきっと早く来てくれるに違いないと
信じていました。予想どうりおじいちゃんは来ました。
私が居たのに驚いたでしょう。「おねしょした」
それだけで全てを察してくれたおじいちゃん・・・
私は謝ったのか?記憶にないのです。

子供や孫の「おねしょ」に私が寛大なのは、
自分の経験から、大人になれば自然に治るもの、
子供心に恥ずかしい、すまないという気持ちはあるのに、
それを怒ってはいけないと思うからです。

天国からこの世が見えるとすれば、
おじいちゃんは苦笑しているでしょう。
「黙ってれば良いことを書いて・・・」って。
それが堂々と出来る年になったんです。
これも加齢現象?





コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父

2006年04月06日 | 思い出話
               神戸花鳥園

4月からのNHKの朝ドラの蟹江さん扮するおじいさんは
外出着にとんび(マント)を着ています。
私のおじいちゃんも冬は中折れ帽にとんびを着ていました。
私はとんびの袖を掴んで歩いていたように思います。
寒い日はすっぽりと私をとんびの中に入れてくれました。

お正月の正装は紋付袴で胸に日露、日清戦争の二つの
勲章を付けていました。その時の戦争の手柄話を
聞かせてくれましたが少しも覚えていません。

ところが普段はどんな姿だったのか思い出せないのです。
勿論着物だったと思うのですが・・・
戦争中の外出は男性は国防色の国民服にゲートルでした。
おじいちゃんもそうだったのかも知れません。

魚釣も好きでした。
魚崎の親戚の家に泊りがけで行っていました。
カラフルな毛ばりを一杯持っていました。
この時ばかりは私はお留守番です。

私を寝かせつけてくれるのもおじいちゃんでした。
お話が上手で私が寝入るまで話すのですが、
昼間は「猿蟹合戦」とか「花咲爺さん」とかお伽話を
読んで聞かせてくれるのですが、寝かせる時は違いました。
おじいちゃんが講談師から聞いた話を聞かせるのです。
「安珍清姫」「岩見重太郎」が私は大好きで、
何度もねだった覚えがあります。
私が本を好きなのはこの影響かと思っています。

おじいちゃんは身体が大きく、四角い顔で、美男子ではなく、
厳つい感じの人でした。写真でしか知らないおばあちゃんも
優しそうな人ですが、普通の器量です。
だのにどうして母のように美人が生まれたのかと、
子供心に何時も不思議に思っていました。
おじいちゃんは「トビが鷹をうんだ」と言っていました。




コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年04月05日 | 思い出話
              芦屋川のさくら(2)


孫娘をつれて「神戸花鳥園」に行ってきた。
開園されてまだ1ヶ月経っていないが、
私は開園4日目に主人と来たので二度目だ。

鳥に直接触れる事が出来るのである。
又花好きの私には溢れんばかりの花々が
私を呼び寄せる。

主人との時は2時間は居なかったと思うが、
今日は延々5時間である。
孫娘がもし気に入らなければ、神戸空港にでもと
考えていたが、杞憂であった。

私はおじいちゃん子だった。
自分がば~ばと呼ばれる年になっても
懐かしく思い出す。

私は四六時中おじいちゃんと一緒だった。
男の子が私を泣かそうものなら、
おじいちゃんは、その子を叱りに出てきた。
「子供のけんかに親出すな」どころか
おじいちゃんが出てくるのである。

おじいちゃんは宮大工だったそうな。
だからお盆には、お供え物を流すための船を
器用に作っていた。

お相撲が好きだった。私は何時も連れて行かれた。
相撲については何も覚えていないが、
帰りに何時も行司の軍配を握っていた。
私が買って欲しいと頼むわけがないので、
見に来た子供に配られたものではないかと思う。

温泉も好きだった。近くの宝塚温泉、湊川温泉に
連れられて行った。今思えばサウナだと思うが、
薄暗い熱くて息が苦しいような所にも一緒に入った。
一人待たすのが気が気でなかったのだろう。

温泉には、お芝居や歌劇、映画を見せる場所が
併設されていた。映画はトーキーで、
向かって左端に弁士がいたと覚えている。

阪神パークや諏訪山動物園、宝塚遊園地にも
よく連れて行ってもらった。
三箇所とも今はもうない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃれ心 2

2006年04月04日 | 気にかかる
              芦屋川の桜 (1)


10日ほど前の雨降りの昼下がり
私は何気なく鏡を見た。
その時メガネを掛けていた。
「えっ!?」「これわたし?」
鏡の中の私はレンズでデフォルムされて
見るも無残な皺、しわ、シワ・・・
その上、海原に浮かぶ小島のようなシミ・・・
鏡を見る事を余りしない間に・・・
私はきっちりと齢を重ね、その年を
我が名刺の顔に刻んでいた。

私は何時も「年なんだからシワやシミは
在ってもしかたがない」と思っていた。

その進化の早さに驚いたのは事実だが、
私がもっとも驚いたのは、
「こんな顔では、これからは
人にはあいたくないな~」とつぶやく
マイナス思考に落ちた自分に驚いたのである。

洗顔と化粧水、乳液ぐらいしか使わず、
人と会う以外はスッピンでいるうちに
着々と皮膚は老いていったのである。

普段つけないので私はお化粧が下手。
「お前のようにお化粧して艶がなくなるなら
スッピンの方がず~とましや」
と憎たらしい事を主人は言う。

実は自分でも感じてはいた。
もっとクリーミーな化粧品に変えるべきかな?
40年同じメーカーのものを使っている。

「よっしゃ!」こうと決めたら行動は早い。

主人も新しい化粧に変えたらと言っていた、
幸い白髪は少ないので染めていないので、
お金が掛っていない。酒タバコは勿論、
コーヒーも飲まない、饅頭は食べるが・・・
頭の中で、言い訳したり、慰めたり・・・

生まれて初めてデパートの化粧品売り場に出向いた。
「瑞々しい顔になる化粧品が欲しいのですが」
店員さんは「きめ細かい綺麗なお肌ですね」とか
私の気を悪くしないように、買う気を起こすように、
順番に説明をしながら化粧をしていった。
全てのしぐさが、ゆっくりと優しかった。
私のように塗り付けるという感じではなかった。

メーカーは変えなかった。
最低数の基礎化粧品とクリーミーな化粧品を
大枚?万円で求めた。不思議?勿体無いと言う
気持ちがないのである。これ化粧病?

帰宅して今までの化粧品を全て捨てた。

シワ、シミに塗っても元には戻らないだろう。
しかし私は努力して報われないものは何もないと
思っている。だから変化をする事によって、
心の弱りだけは回避できたと感じる。
私はこれからも人の輪に加わるだろう。




コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃれ心

2006年04月03日 | 気にかかる
シザンサス
2~3㎝の小さな花が群がって咲くのです。
種は1㎜ほどの小さいものです。
去年は5色ほど咲きました。


指輪のサイズ直しが出来上がったのです。
メキシコオパールなんです。20年前現地で
買ったんです。あちらの人は壊れやすいので
好まないんです。日本人は好きですよね。

店員さんがいいました。「綺麗ですね!端々まで
光っています。それに使っている素材のカラット、
グラム全て彫られています。信用のあるお店で
買われたんですね」私は20年間リングの裏にそんな
彫りがあるなんて知りませんでしたよ。

メキシコ在住の仲良しさんの行きつけのお店で
買ったんですもの。ウインドウなんてないんです、
普通の住宅で中に入ると宝石やさんでした。
現地の人でないといけないお店ですね。

お店の人も彼女も「これにしなさい」って
言ったんです。でも私迷ったんです、倍ぐらいの
大きさの物でもこれより安いんです。大きい方が
見栄えが良いのではと思ったんです。でも結局は
宝石を買いなれている彼女の意見に従ったのです。
小さな石でもその当時の私の指には立派でした。
今の指の太さなら大きい方を買っていたでしょうね。

サイズ8というのは既製品にはないそうです。
9からだそうです。私の指は何時の頃からか、
加齢現象というか、関節が太くなって12サイズに
なっていました。

お直しは1サイズ大きくなると3,500円、それより
1サイズ上がるたびに700円です。
金ですと3,000円、500円だそうです。
私の指輪は3,500円+2,100円+税金を払って
我が指にすんなり収まりました。

帰りには勿論はめて帰りましたが、
久し振りの指輪の感覚、やっぱり良いですね!
忘れていた「おしゃれ心」を取り戻した日でした。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする