ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

母になる

2006年04月01日 | 思い出話
昭和35年4月1日
私は47年前の今日 母になった。

予定日は4月14日だったが、
早期破水をしたため、前日に入院、
陣痛促進剤を打った。

生まれた子はへその緒を襷に掛けていたそうだ。
その上私が途中で息を止めたので、
額に鬱血の黒い輪がくっきりと付いていた。

産声を上げなかったので、お医者様が足を持って
逆さ吊りにしてお尻をたたいているのが見えた。
赤ん坊は弱弱しく「ふぎゃ~」と泣いた。

翌朝お医者様は言われた。
「誕生日を一日延ばしますか?」「???」
「4月1日までが早いき(7ついき)なんですよ。
可哀想なので延ばす人が多いんです」
私は即答した「生まれた日のままにしてください」

三年保育の幼稚園に入園させる面接の時
彼は2歳半だった。
お気に入りのダックスフントの縫ぐるみを持って
面接会場に行った。後で園長先生が言われるには
「お母さんは保育園と間違っていると思った」と。

「私の言う事が理解できれば入園させます」
園長先生は積み木や簡単な図を使って、
「先生の通りにしてごらん」「かいてごらん」と
テストされた。幸い理解できて入園許可がでた。

新一年生の中で一番小さい彼は
後姿を見るとランドセルから
首や手足が出ているようだった。

ある日「僕色盲やって」と帰ってきた。
家で色を言わせてみたが、3年間の幼稚園生活で
しっかりと色の名前が理解できていた。
私は担任の先生に「先生の言われることが
理解できていないだけで、識別は出来ますから、
もう一度ゆっくりとテストしてやってください」
とお願いして解っていただいた。

4月2日生まれの子と比べれば1年の差がある。
勉強の方は3年頃に追いついたが、
身体の方は高校ぐらいでやっと追いついたと
記憶している。

人並みに一浪もし、大学を卒業した。

今は市内の会社に勤めている。

彼の父が47歳の時、高校生二人の父親だった。

だが彼はいまだ人の子の父になっていない。












                      
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木彫作品展

2006年04月01日 | 思い出話
    
  幼稚園からの友人のふみこさんの木彫りの作品展を
  神戸に見に行った。
  木彫りをする人がこんなに多いのかというほど、
  人で賑っていた。
  
  彼女のお母様も94歳でお元気との事、
  若かりし頃のお母様はよく存知あげている。

  小学校一年の頃の事と思う。
  ご両親が娘の授業参観に来られた。
  父兄参観日(今は保護者会)ではないので
  子供心にも緊張した雰囲気だったと覚えている。
  それはお父様が軍服姿(海軍)で
  長~いサーベルをつけておられたからだと思う。
  当時の男の子にすれば憧れの姿だったろう。
  絵に描いた男の子が居たと言う。
  彼女にこの思い出を話すと彼女の記憶には無いという。
  
  元町の家は3月17日神戸の大空襲に焼け落ちた。
    
  私は児童集団疎開していた加古川から、
  遥か神戸の燃える火を眺めた覚えがある。
  3年生の私にはそれが自分の人生を
  変えるものであるとは知る由も無かった。

  疎開から帰った私は平野に住んだ。
  彼女もおばあさん宅に居て又同じ小学校になった。
  放課後は彼女の家でよく遊んだ。
  当時はまだ珍しい芝生の中央に大きな家があった。
  
  中学も一緒だったけれど、
  同じクラスになる事が無く遊ぶ事は無くなった。

  でも一つだけ忘れられない思い出がある。
  
  当時は弁論大会と言ったが、
  彼女と私もクラス代表に選ばれた。
  終戦まもなくのため、全校生徒の集まる講堂は無く
  弁論大会は青空の下、校庭で朝礼台の上であった。

  彼女は「読書について」
  私は「私達は意志の強い人間になろう」を弁じ、
  二人は学校代表に選ばれ地区大会に出た。
  そこでは各中学からの審査の先生の前に
  一人ずつ出て弁じた。

  彼女は優勝した。一年の男子も優勝し
  県大会に出た。
  今思うと地区大会で同じ学校から2学年で
  優勝をさらうってすごい事だと思う。

  県大会では、彼女は優勝は逸したが
  優秀賞だったと聞く。

  その小学校の同期会(第三回)を今年する事になり
  彼女、私を含め7人のお世話役が集まった。
  11月初めに会を持つ事が決まった。
  「古希」の年ではあるけれど、皆年金生活者なので
  出費はなるべく安く、時間も早めの16時とだけ決めた。

  彼女とは「元気で居ましょうね」と別れた。




コメント (2)
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