ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

おゆきさん

2006年04月26日 | 思い出話
              花ニラ
    お友達から他の花をいただいた時付いてきました
  香りは良くなく何処にでもある花ですが子孫繁栄の手本

メキシコ在住のおゆきさんからの2度目のメールはご主人が亡くなったという悲しいものでした。今日4月26日が一周忌です。日本で福知山線脱線事故に心塞いでいた私が少し落ち着いた6月その知らせのメールを受け取ったのです。主人は電話をする様にといったのですが、私はどうしても出来ませんでした。唯涙で何も言えないと思うからです。私は1月にやはり未亡人になっていた、しっかり者の仲良しさんに「メキシコに電話して!」と頼み、私はやはりメールにしました。自分でも情けないとは思いましたが、それが私なのです。

ご主人は身体の大きな方で、メキシコに空手を広め「メキシコの空手の父」と呼ばれておられたそうです。晩年は空手に力を注いでおられ、お弟子さんを連れて何度も日本に来られたようです。お酒もタバコも嗜まない方ですが、家系として心臓病を持っておられ随分気をつけては居られたようですが・・・
今の73歳は若いのですが、京都から駆けつけたよしえちゃんもちゃんお別れがと出来たそうですし家族に囲まれ旅立たれたそうです。幸せな最後だと思います。

何故2度目のメールかと言いますと去年の2月に「メールデビューです」と突然メールが入り驚きました。次女三女はメキシコで結婚していますが、長女は京都に居ますから、私も何度か勧めたのですが「ノー」と言う答えが返るばかりだったからです。ご主人のお友達が機器一式を持ってメキシコまで教えに来られたそうです。

唯、私とのメールの相性が悪く、メキシコからは来るのですが、私からのメールは届かないのです。「初メール」へのお返事だけは届いたそうですが。残念ですが何度試みても駄目なんです。それだからと言って返っても来ないのです。必要な時は「京都のよしえちゃん」経由で転送してもらうと言う形を取っています。本当は頻繁にやり取りしたいのですが。このブログからは通じるのではないかと祈るような気持ちで書いています。

彼女は上海からの引揚者で、一旦は九州にいて、中学2年の3学期に私たちの中学に転校してきました。放課後、私達が校庭でボール遊びをしていましたら、朝礼台にもたれて仲間に入りたそうにしている少女が居ました「入る?」と声を掛けたのが始まりです。3年に進級して今度は同じクラスになりました。それから毎日のようにお宅に遊びに行きました。おばあさんを中心にした兄弟姉妹の多い大家族・・・母子家庭の私の憧れの家庭でした。おばあさんも私を可愛がってくださいました。

戦後間もない頃です何処の家庭にもピアノがあるという時代ではありませんでした。彼女は早朝に音楽室で練習すると言う許可を音楽のなかがわ先生にもらっていました。その日は私も早く行って彼女が弾くそばで聞いていました。「エリーゼのために」と言う曲だと教えてくれました。あれ?「乙女の祈り」だったかな~。

又歌う事も上手で学校代表で元町の三越デパートにも出ました「歌の翼に」を歌われました。彼女が言うにはあがって間違ったそうですが、私は大勢の人の後ろから背伸びをして彼女を見ていた事だけを覚えています。音楽会といっても椅子があるわけではないのですよ。その頃は立って聞くのでした。

カラオケも大好きで「八代亜紀」の歌が好きだそうですが、なんと言っても原語の「ベッサメムーチョ」は一品です。訪日した時は必ずクラス会を開くのですが、皆のリクエストは「ベッサメムーチョ」です。とてもとても良い声です。

外国生活が長いからか何所となくハイカラさんのおゆきさんと私が出会って半世紀以上が経ちました。メキシコと日本では中々会うことは出来ません。去年の来日時「もう何度日本に来られるかしら?長い飛行時間が重荷になってきたのよ」と心細い言葉が出ます。ご主人を亡くされた心の弱りからと信じたいです。よしえちゃん一家や私たち友達のためにこれからも何度でも来て下さい。待っています。そして私ももう一度メキシコに行きたい!!









コメント (7)
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