「二河白道」の物語は、さらに「次にこの譬えの意味を法義に合せて示せば」と続く。
「東の岸」というのは、迷いの娑婆世界をたとえたのである。
「西の岸」というのは、極楽世界をたとえたのである。
「盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づく」というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大をたとえたのである。
「人影一つない広野」というのは、いつも悪い友にしたがうばかりで、まことの善知識に遇わないことをたとえたのである。
「水と火の二河」というのは、衆生の貧りや執着の心を水にたとえ、怒りや憎しみの心を火にたとえたのである。
「間にある四、五寸ほどの白い道」というのは、衆生の貧りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこることをたとえたのである。貧りや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、信心のありさまはかすかであるから四、五寸ほどの白い道にたとえたのである。
また、「波が常に道に打ち寄せる」というのは、貧りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえ、また、「炎が常に道を焼く」とは、怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。
「道の上をまっすぐに西へ向かう」というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである。
「東の岸に人の勧める声が聞え、道をたどってまっすぐに西へ進む」というのは、釈尊はすでに入滅されて、後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども、残された教えを聞くことができるのをたとえたのである。すなわち、これを声にたとえたのである。
「少し行くと盗賊などが呼ぶ」というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、「念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう」とみだりに説くことをたとえたのである。
「西の岸に人がいて喚ぶ」というのは、阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。
「間もなく西の岸にたどり着き、善き友と会って喜ぶ」というのは、衆生は長い間迷いの世界に沈んで、はかり知れない遠い昔から生れ変り死に変りして迷い続け、自分の業に縛られてこれを逃れる道がない。そこで、釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来れと招き喚ばれるのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、貧りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、仏とお会いしてよろこびがきわまりない。このことをたとえたのである。
【六根】
六識のよりどころとなる対象を認識するための六種の器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根(前刹那の意識)をいう
【六識】
色・声・香・味・触・法(認識の対象となるすべてのもの)を知覚し認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識をいう
【 六塵】六識の対象となる六つの境界
色・声・香・味・触・法の六境をいう
【五陰】
五種の要素の集まり
色(物質)・受(感受作用)・想(知覚表象作用)・行(受、想、識以 外の「思」などに代表される心作用)・識(識別作用)の五種をいう
仏教では、すべての存在は、この五種の要素が因縁によって仮に和合したものであると説く
【四大】
一切の物質を構成する四つの元素
- 地大:難さを要素とし物を保持する作用のあるもの
- 水大:潤いを性質とし、物をおさめあつめる作用のあるもの
- 火大:暑さを性質とし、ものを成熟させる作用のあるもの
- 風大:動きを性質とし、ものを成長させる作用のあるもの
以上に「空大」をくわえて五大ということもある