京都の東本願寺の真向かいに「正面通」という道があります。当初、私は東本願寺から飛地境内の渉成園までのこの道を、東本願寺の正面を意味する「正面通」だとばかり思っていました。だけど、東本願寺の西に位置する西本願寺の真正面にも同じ正面通があることを知って、なるほど東西本願寺の正面通か!なんて思っていました・・・・・
意外なところからその謎が解けました。
韓国併合から100年にあって目にするさまざまな書籍の中のひとつに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592-1598)の記載がありました。
秀吉は出兵する大名に、兵士だけでなく一般の老若男女すべてをなで切りにすることを指示し、大名らはその証拠として鼻を削ぎ、塩漬けにして持ち帰ったといいます。その鼻を埋めた場所が「耳塚(1597築造)」として今でも京都に遺されています。実際は鼻だけでなく耳もあったといいます。「鼻塚」でなく「耳塚」と呼ばれているのは、鼻削ぎという野蛮性を和らげるため?だともいわれているそうです。
この「耳塚」について探っているうちに「正面通」が出てきました。
耳塚が築かれたのは、当時、秀吉が奈良の大仏に倣って建立した方広寺(1586着工-1595完成)の門前でした。
「正面通」の由来は、この方広寺の大仏殿の正面を意味しているそうです。
♪かぁごめ かごめ♪の「うしろの正面」もここに由来するとか・・・。
方広寺の大仏建立と同時期、織田信長との石山合戦(1570-1580)にて大坂を追われた本願寺に対して、秀吉は京都に土地を与えて本願寺が建立(1591)されます。それが今の西本願寺であり、方広寺の真西に位置します。正面通は東本願寺ができるまでの10年ほどの間、方広寺から鴨川の正面橋(志ようめんばし)を渡って本願寺まで続いていたわけです。
秀吉の死後、遺体が埋葬された方広寺の東の阿弥陀ヶ峰に豊国廟が建てられ、その麓の方広寺との間に豊国神社(1599)が建立されました。
豊国大明神という神号を与えられ、阿弥陀ヶ峰の豊国廟、豊国神社、そして秀吉の子「鶴松」を祀った祥雲寺、方広寺大仏殿、そして本願寺が同一線上に配置された秀吉の遺恨とその影響を嫌い、恐れたのが家康でした。
家康はその神号とともに豊国廟・豊国神社を廃し、その参道をふさぐ位置に新日吉神社を建てて移祀しただけでなく、祥雲寺は智積院に、方広寺は妙法院に与えてバラバラにします。さらに、秀吉によって退隠させられた本願寺第十二代の教如上人に、豊国神社・方広寺と本願寺を結ぶ正面通を遮断する烏丸六条に土地を寄進して東本願寺(1602)を建て、それによって本願寺の勢力も二分されることにもなりました。
家康の没後、家光によって東本願寺の東に寄進された場所が今の渉成園です。正面通を分断するという同じ理由で、家光が土地を寄進したのかどうかはわかりませんが、もしそうだとしたらやはり、江戸時代にあっても秀吉を称賛しようとする民衆の声があったということでしょう。
秀吉の死は伏せられ、通夜も葬儀もないまま埋葬されたといいます。つまり今でいう「直葬」だったそうです。
ただ、平安京で七条坊門小路といわれていたこの道が「正面通」と呼ばれるようになったのは、♪かごめ かごめ♪が流行した江戸時代中期以降であることを思えば、家康によって徹底的に封じ込められたはずの秀吉の威信が水面下で脈々と流れ続け、江戸時代に廃せられた豊国廟、豊国神社が明治天皇によって再興され、「再び耳塚を築く日も近い」と与謝野鉄幹が詠んだとおり1910年、日本は「韓国併合」を実現させるに至ったのです。
隣国の名もなき一般市民の削がれた鼻の遺跡の存在が、今の「私」に決して無関係でなく、忘れてはならない歴史を教えているのでした。
♪かごめ かごめ♪の「うしろの正面」の文言が登場するのは明治以降といわれ、その関わりは諸説ありますが、正面通の謎を知り、その路をじっくり歩いてみたいと思いました。
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