遊煩悩林

住職のつぶやき

酒の肴で終わらぬように

2010年01月18日 | ブログ

極楽浄土には七宝の池があるといいます。?
金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・瑪瑙のそれぞれの池は、軽・清・冷・軟・美・香・飲無厭・飲無患という8つの功徳の水に満たされていて、そこに咲く蓮華は光を放っているといいます。?さて、それはどんな光なのか。

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画家のNakatani Takeshi氏に蓮の屏風絵を依頼してミーティングを重ねてきたところ、最終的に行きついたのが上記の問いです。

〈関連記事/http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/

そこで私にとっては親鸞のこの2行に尽きるのではないかと結論を出しました。

得至蓮華蔵世界
?即証真如法性身

蓮華蔵世界に至ることを得れば?
すなわち真如法性の身を証せしむと

これは真宗門徒が日々の勤行に用いる「正信偈」のことばです。
?〈正信偈/http://ja.wikipedia.org/wiki/〉?

「蓮華蔵世界」は、阿弥陀仏の浄土です。
「至ることを得る」はすなわち「往生」、つまり浄土に往生するとどうなるのかについて「すなわち真如法性の身を証せしむ」という天親菩薩の教えを親鸞聖人は大切にお伝えくださっています。?
「阿弥陀仏の功徳として与えられている名号に帰依するならば、この身のままで、浄土に往生している人びとの仲間に入らせていただくことになり、そして浄土に往生すれば、直ちに仏になることができる」
〈正信偈の教え/http://www.tomo-net.or.jp/

仏教の最終到達点は仏に成ることにあります。「成仏」です。
?この成仏と往生ということがこの2行で表現されているわけです。
?強調したいのは、「死んだらホトケになる」と娑婆では理解されているようですが、死んでからでは解らんということです。?生きたまま往生、そして成仏が確定するということがポイントだということです。?私たちはこのことを確かめるために人間に生まれてきたわけです。?わざわざ人間に生まれてきた・・・。もし馬に生まれてきていたなら「馬の耳に念仏」です。
あらゆる仏は蓮台についておられます。絵像も木像も・・・?ご本尊である阿弥陀如来は、蓮の台座のうえに立っておいでになります。
?仏像はカタチですが、それは光を意味しています。光は智慧のことです。その智慧が「南無阿弥陀仏」であり、具体化すれば「往生成仏」です。
?阿弥陀如来が私たちを必ず「往生成仏」させると誓われた事実を、極楽浄土の蓮華が「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」という光を発して私にまで届いているのだと受けとめてみたのです。?その真実を「南無阿弥陀仏」と応えることで決定し、成就していくのだと。
とまぁ・・・あまり堅い説明になると、せっかくの絵が台無しになるので、まずは、仏教には興味があるけれどもお寺に無縁な若者(「若者」は年齢ではありません。往生が確定していない方々?・・・)に向けて発信し、この屏風を眺めながら酒でも酌み交わし、仏教の「ほんとう」にふれていく機会となれば・・・と思っています。
?住職の立場としてはナムアミダブツを酒の肴に・・・という抵抗もありますが、そこからしかはじまらない私の深い慚愧とともに・・・
 
さて完成した屏風には、過去・現在・未来の「三世」の因縁果がそれぞれ「花」と「つぼみ」と「実」で、浄土の八功徳の「水」が「文字」で表現されています。?そして「光」が親鸞の2行の言葉で描かれています。
?タイトルをつけるならば「往生成仏」になるのでしょうが、それはそこに描かれていることなので見た人に観じてもらいたい事柄ですから、あえて伏せておきたいと思います。?この蓮華図を観じて「往生成仏」とは、きわめて難解かもしれませんが・・・。

阿弥陀経には蓮華の放つ光が具体的に「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」(青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり)と表現されていますから、そのままタイトルとして頂戴するのもひとつかもしれません。また、それはそれぞれがそれぞれの差異を認めあって輝く世界を意味するのですから「あなたはあなたであればいい」「わたしはわたしになればいい」「みんなちがってみんないい(金子みすず)」とさらに展開されますが、こうなってくると詩歌のタイトルになってしまいますからどうかとは思いますが、これらのことばの根拠が仏典に裏付けられていることはふまえておくべきだと改めて考えさせられます。そうこう考えるとタイトルは阿弥陀経に倣って「如是我聞」というところに巡ってくるのでしょうか。ともあれそんなことを入院中で時間を持て余している妻と執筆者の意向を含めてミーティングして決定したいと思います。

ところで、屏風絵が出来上がるまでの「こと」の発端は長女誕生の「しるし」にという非常にパーソナルなものでした。Nakatani氏との何度かのやりとりの中で「君たちのモノに止まらず、すべての人の屏風になるような・・・」という願いと「君たちが解っているものを屏風としてカタチにしてしまうことより、解らない人が解るための手がかりになれるための屏風にという意識が僕にはあります」ということばをいただいて、ハッとさせられたことがあります。
それは仏の教えを自分たちだけのものに留めてはいけないという仏教徒の使命でした「自信教人信」。独占的な自己満足で決着せず、そこからスタートしかなくてはいけない、と。
私たちだけのものにせず、多くの方に観ていただき、批評を求めるのではなく、互いに「生まれた意義」をたずねていく「終わりなき出発」にしたいと思います。

ネコに引っ掻かれないように今は厳重に保管してありますが、月末の報恩講の茶席にお披露目しますので是非ご参詣を・・・。

Takeshi Nakatani Information&Taik 「Newsboy
?http://takeshinakatani.jp/

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