遊煩悩林

住職のつぶやき

葬式の順番待ち

2010年01月05日 | ブログ

年末から持ち越していたご門徒の葬儀を一昨日、おつとめしました。
葬儀式場での告別式でしたが、職員によると年末から持ち越した葬儀が8件あると・・・葬儀渋滞が深刻です。
この式場の祭壇施設はひとつだけ。会費を積み立てた会員制ですから他に頼むわけにもいきません。市内に系列施設が1ヶ所ありますからそちらと振り分けたとしても、その8件がすべて執行されれば渋滞が緩和するかというと、どうなのでしょう。未執行の葬儀を何件か待機させながらも、次々と「会員さま」からの訃報が届くのですから。式場を利用したいとなると一体いつまで待てば、という状況です。
何年か前に、首都圏では火葬場がお盆休みのために火葬待ちの遺体で都内の葬儀社の冷凍庫が満杯になり、葬儀も1週間から10日待ちは当たりまえだと聞いたことがあります。
今回の状況は火葬待ちではなく式場待ちによる渋滞です。式場さえ変更すれば容易に解決する問題ですが・・・。
当のご門徒も当初予定していた日程が、すでに年末の段階で埋まっていたようです。
自宅や寺でやれば何の問題もありませんが、「ミソ」は「会葬者への配慮」という口説き文句です。正月3ヶ日はマズいだろうとか、外で待たせると寒いだろうとか、駐車場が・・・食事は・・・と言い出せばキリがありません。結局は、正月であろうと来る人は来る、来ない人は来ない、のですし、肝心なのは「死」と向き合うということですから、そこらの配慮こそ必要だとしてもメシやクルマの心配まではどうなんでしょう。確かに付帯事項ではあるのですが・・・。
こんな田舎の市街地でも、もはや恒例になってきた正月明けの「葬儀渋滞」。
何を優先事項にするのかということが問われているような気がします。会葬者への配慮なのか亡き人の死と向き合うことなのか。
一体誰のために、そして何のためにやるのかということを確認しなければならないと思いました。
以前は、正月明けの火葬場が一杯で、それに応じて日程を調整するなんてことがありました。が、昨今は火葬場の予約が取れても、式場が空いていない・・・なんてことになってきたわけです。葬式をするのにさらに壁が高くなったというか、ハードルが増えたわけです。このハードルの数と高さは、通夜も告別式もしない「直葬」化の一因でもあると思えるのです。
さて、火葬時刻に合わせて告別式を勤め、出棺・火葬、骨上げをして再び式場に戻って還骨+初七日法要、そして親族の会食を予定したご門徒に対して、待っていたのは出棺以降の利用はできないという対応だったそうです。ひとつしかないその施設にその日に通夜をする遺族がやってくるのですから?!。
ならば、式場を利用する理由はいったいどこにあるんだろうかと考えてしまいます。「会員」制の落とし穴です。
結局、法要と会食はお寺でやることになり、お寺を大事にされたおばあさんの意思をそこでお伝えすることができ、またそこに実際に足を運んでそれをご遺族の方々も実感していただけたのですが・・・ならば!です。全部お寺でやったらよかったじゃないか!という気がしないでもありません。
多くの人が自宅や寺を避けて葬儀専用貸しホールを選択するようになってきた時代に、自分たちが「寺の一員」であるとの認識を持つことは容易なことではありません。ですが、実際に足を運ぶことで、死んだ親さまが大切に維持してきたことを「知る」ことができ、それを知ることではじめて葬式に「意味」が与えられるのではないかと思ったときに、お寺に足を運んでもらえるような具体的な工夫と努力が私には足りてないんだと反省させられました。
今回は、葬儀式場の勝手な都合?というか物理的な問題によって寺がその尻拭い的に利用されたような感覚は否めませんが、私たちにできることとして、ご門徒が葬儀を営むときに「無駄な」ハードルがあるとすれば、その障害を取り除いてあげることも僧侶の勤めだと実感しました。「念仏は無碍の一道なり」なんですから。
それにしても市内の葬儀場がすべて同じような「渋滞」状況にあるとは考えにくいですが、15万人にも満たない田舎町でこの状況ですから何百万人・何千万人の大都市ではどうなっているのかと東京都の火葬場の状況を調べてみました。
すると・・・・どうも公営の火葬場も民間の斎場も正月3日間はお休みのところが多いようです。大晦日から正月3日の4日間お休みのところもあります。

東京斎場ねっと http://sougi.setaco.jp/

東京では正月休みだけでなく盆休み、そして「友引」は休みだといいます。伊勢市の場合、火葬場は元日のみがお休みですから非常に稼働率は高いわけです。民間入札で業者は赤字覚悟の落札、人的なやりくりなど大変です。もちろん職員の休暇や施設のメンテナンスということもありますから「無休がいい」と言いたいのではありません。
遺体を冷凍保存し、ただ順番が来るのを待つだけという状況を考えてみたいのです。
「死」を問わず、遠ざける時代にあってこの待ち時間は「死」とそれを取り巻く状況を知り、問う貴重な時間ともなり得るのです。それを抜きにしては、どれだけ忙しくしている人であったとしても、たとえ生きている人であってもそれは自分の火葬の順番を待っているだけと同じといってしまってもいいのではないでしょうか。

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