例えば体罰に賛成する人とか、刑の厳罰化に賛成する人とか、あるいは警察や自衛隊、自警団による監視の強化に賛成する人、そういう人もいるわけですが、まぁ私にはなかなか理解に苦しむものでもあります。一体どうしたらそんな考え方が可能になるのか、それが可能になる前提は何なのか、ちょっと推測してみると致しましょう。
統計上の裏付けが一向に表に出てこないのではありますが、世論上では問題のある子供(及び親)が増えていることになっています。現場の教師達も対処できないなかで、どうしても口で言ってわからせるだけでは間に合わないという事情があるのかもしれません(その辺は昔も今も同じはずですが)。だから、一発ガツンとやってやれ、聞き分けのないガキには殴って理解させるのも教育だと、そんなノリで体罰を肯定する声が出てくるのでしょうか。
一応、今は体罰は禁止されているようですが、その一方で言ってもわからないガキというのは今も昔も存在し続けているわけで、ではその辺の子をどう扱うべきなのか、体罰は禁止だからあくまで手を出さないべきなのか、それとも言ってわからないのであれば殴って従わせるべきなのか、意見は分かれます。私の個人的な記憶では、やはり言ってもわからない子供達というのは珍しいものではなく、はっきり言って邪魔な存在でした。ぶん殴っておとなしくさせてしまえ、という気持ちも分からないでもありません。
ネット上の言論で多数派を構成している人々には、割とおとなしい、内向的で、かつ遵法意識の高い人が多いような気がします。そしてこういう人々は概ね、小中学校時代は「いい子」であって、目立って悪いことはしてこなかった、教師から罰せられるようなことの少なかった人が多いのではないでしょうか。むしろ逆の立場、規則(校則)に違反する人、窃盗や暴行、恐喝にいそしむ人、言ってもわからない人、こうした「悪い子」によって何かと侵害されてきた人が少なくないかもしれません。
そうした「いい子」にとっては「悪い子」を何とかして欲しいという気持ちが強くなるのは当然のことです。言ってもわからない「悪い子」が殴られずに放置されている現状は非常に不満を感じさせるもので、結果的に「悪い子」を保護している体罰の禁止が疎ましいものに思われたとしても不思議ではありません。体罰を容認して「悪い子」にしかるべき指導をしてやった方がお互いに上手くいく、そんな見方もあるわけです。
しかるに私は、そこまで教師を信頼していません。「いい子」達は教師に鞭を渡せばその鞭で「悪い子」達を罰してくれると期待しているのかも知れませんが、私はそこまで人を信用できませんね。「いい子」にしてみれば自分は悪いことをしていないのだから罰せられるはずがない、自分に鞭が飛んでくることはないと考えているのかも知れませんが、そうでしょうか? 本当に「悪い子」に対してだけ鞭が飛ぶのでしょうか? 試してみるまでもなく、過去の例を我々は参照することが出来ます。鞭が飛んだのは「悪い子」に向けてではなく「都合の悪い子」に対してだったのではないでしょうか。
自分は悪いことをしていないから罰せられるはずがない、鞭打たれるのは悪いことをした奴だ、そう信じるのはあまりにも純真に過ぎるというもの、実際に体罰の矛先を向けられるのは、単に殴りやすい人であったり、あるいは体罰を加える側が殴りたいと思った人であったりする訳です。「悪い子」にとって暴力の標的としやすい「いい子」なんてのは、同様に体罰を加える側にとって標的にしやすい対象でしょう。誰が作り出したか知れない日教組云々の神話が少なからぬ影響力を持っている昨今ではありますが、そうした神話を信じて教師批判に熱心な人ほど体罰には肯定的であったりするのが不思議でもあります。要するに信じやすい人たちなのかもしれません。
死刑その他を巡る厳罰化の動きも似たようなものです。もっと「悪い奴」を厳しく罰せよと、そういう主張が影響力を強めています。法を犯さず、悪いことをしていない人にとってはそういう意見もアリなのでしょうか、真面目に生きている我々を脅かす輩に対処するために、もっと厳しい罰を以て当たるべしと、そんな気持ちは分からないでもありません。
厳罰化を唱えるとき、そう主張する人々はおそらく自らが罰せられる可能性を想定していないのでしょう。当たり前? 我々は罪を犯していない、法を守っている、悪いことはしていないのだから、罰せられるはずがない、罪に対する罰が重くなったところで我々が困るようなことなどない、そう信じているのでしょうか? 自分達は罰せられない、罰せられるのは我々に仇なす輩、そういう想定が前提になっているようです。
残念ながら私は日本の警察や司法がそこまで信頼に値するものとは思っていません。割合としては大きくないのかも知れませんが、次々と冤罪が明らかになり、無実の人が罰せられていた、罰せられようとしていた事例は珍しくもないわけです。警察側の対応も、決して真実を明らかにしようというものばかりではなく、自白を強要して無理に容疑者を犯人に仕立て上げようとしたり、捜査途中で新たな証拠が見つかったとしてもそれを隠蔽して当初からの容疑者をそのまま犯人として立件したり・・・
要するに「悪いこと」などしていなくとも犯人として罰せられる可能性はありますし、本当に「悪い人」よりもむしろ「悪い人」に仕立て上げやすい人、そういう人が標的にされることもあるわけです。ましてや一度容疑者として捕らえられれば、一斉に犯人視されて報道される社会においては尚更リスクが高いと言えます。それでも尚、罰せられるのは「悪い奴」であって自分とは無関係と信じていられるのなら、それは少しばかりお目出度いのではないでしょうか。
治安向上に名を借りた各種の監視強化も同様です。警察によるものもあれば、自衛隊によるものも、あるいは市民によるものもあるわけですが、いずれにせよ「自分は悪いことなどしていないから(監視されても)何も問題はない」などと言いきれるものかどうか? 平日の昼間に出歩いていたりするなど、ちょっとライフスタイルが違うだけでも不審者扱いされることは珍しくありませんし、そうでなくとも外見や振る舞いなど、人と違ったところがあれば警戒の対象とされます。増税に反対したり海外派兵に反対したりと国策に異を唱えるだけでも監視の対象、「悪いこと」ではなく「(監視する側にとって)都合の悪いこと」が監視の対象となっているのが実情です。それでも尚、各種監視の強化に賛成できるとしたら、自分が脅かされることなく、自分を脅かす輩だけを押さえ込んでくれるものと期待しているとしたら、それは想定が甘いと指摘せざるを得ません。
象徴的なものとしては小泉以降の自民党政治、「構造改革」なるものも似たような所があります。貧困層をより貧困にする政策を続けているにもかかわらず貧困層から根強い支持を受けている「新しい」自民党ですが、この奇妙な捻れの原因の一つは上で述べてきた想定の甘さにあるのかも知れません。すなわち「構造改革」が攻撃の対象とした仮想敵の一つである「既得権益」ですが、この「既得権益」を破壊しようという煽動に対して少なからぬ貧困層=小泉支持層はこう考えたのではないでしょうか。「我々は『既得権益』などにはとうていありつけていない、だから『既得権益』への攻撃は我々への不利益にはならない。むしろ『既得権益』が罰せられることは我々にとって好都合で、そのためには小泉自民党にもっと権限を与えねばならない」
その想定が甘い夢想に過ぎなかったことはいうまでもありません。自分に憎む「敵」を撃ってくれるものと期待して銃を渡したものの、実際に撃たれたのはもっと手っ取り早い標的だった、そんなところでしょう。傍目には馬鹿げたことですが、こういう過ちはまだまだ続きそうです。
御説、読ませて頂いたのですが、一点気になる箇所があります。
>試してみるまでもなく、過去の例を我々は参照することが出来ます。鞭が飛んだのは「悪い子」に向けてではなく「都合の悪い子」に対してだったのではないでしょうか。
「過去の例を参照出来る」とおっしゃっており、実例が明示されるのかな、と期待したのですが、実際の所批判されている根拠はご自分の想定のみである様に思います。
この、「都合の悪い子に対してだったのではないでしょうか」という想定のみを足場に、次の段落のご主張は飛躍ではないでしょうか。
私が直接に知っている学校(小学校に限定します)は5つ程度ですが、少なくともこれらの学校においては、ご想定の様ないかにもわかりやすい、「殴りたいヤツを殴る」的な教師はいない様に思います。
法律による刑罰を停止して私的復讐ではコストがかかり一般人では出来ませんが、隣の国ではそのような例の報道がありました。
構造改革は単なる美名に過ぎない面もありますが、社会保険庁のような低レベルの業務処理が白日の下に晒されるならば民間企業の場合は倒産です、社会的に必要とされても他社による事業継続です。経営者責任者一同は死刑とはならずとも追放です、民間移管でルーズになるとの懸念は無きにしも非ずですがバレタらお終い、役人は不祥事発覚でも天下りです。
天網恢恢疎にして漏らさず、民間企業の悪事は何時までもは続かない。役人の悪事は長期間続く、国が倒産または敗戦まで。
警察による「悪い人」デッチアゲは警察官自体がチョイ悪人間、要領のいいワルの成れの果ての結果です、本物のワルはヤクザ暴力団になる。
しかし警察官が本当に悪くなるのは個人的能力より永年勤続の悪弊です。教師も永年勤続で悪くなる。
学校教育を含めての厳罰には大賛成です。
ちなみに僕自身は小学校時代は教師(及びクラス)にとっての典型的な都合の悪い子でした。暴力的とは縁遠く虚弱系でしたが教師の権威を冷笑する怠け者、徹底したイジメの対象になってもおかしくない人間でした。
偉人や天才は教師にとっての都合の悪い子、いじめの対象から生まれるので厳罰が悪いとは考えません、厳罰こそが飛躍の原動力です。
現実には都合の悪い子の大半は落ちこぼれにされます。(自分です)
誰も信じられないのであれば…どうすればいいのでしょう?
問題を犯罪に限定し、いろいろ考えてみました。
まず座標を組みましょう…(警察(の強弱)、監視システムの有無、信)の三つが重要です。
その「信」も(警官・一般市民)に分けて考えるべきで、(警官を信じる、一般市民を信じる)(警官を信じる、市民を信じない)(警官を信じない、市民を信じる)(警官を信じない、市民も信じない)の四つになります。
本来なら全ての組み合わせを考えるところですが、実際にはかなり省略できます。
たとえば、「警察が強い」状態で機能するには、少なくとも警官に対する信頼がなければならず、また市民を信じない状態がもっとも警察に対する依存心を強め、警察の監視を含む権限を認めてしまうことになるでしょう。
これまでは高度成長という特異な経済の影響・封建的な旧来型村社会や家族制度の残滓もあり、(警官を信じる、一般市民を信じる)状態があり、それゆえに警察もやや弱く、監視も非常に弱くて済んでいました。
もちろんその状態でも皆が警察を信じすぎていたため冤罪の害があり、また一般市民同士の信は「強いられる」面もあったために犯罪被害者の人権も虐げられてきました。
しかし高度成長が止まり、封建遺制も弱体化し、少なくとも一般市民相互の信が失われた以上、その居心地のいい状態にとどまってはいられません。
さて信が失われたという前提で、(警察国家、監視国家)(警察国家、非監視)(警察弱、監視強)(弱警察、無監視)のそれぞれを考えてみましょう。
実際には(警察国家、監視弱)は考えにくいので消します。ただし、警察の監視能力が強ければ、冤罪を警察自体が意図的にやる場合以外かなり予防できる面もあります。
警察・監視国家は上記の通り、市民相互の不信感とそれに対応する警察に対する信頼感に支えられます。
しかしそれは思想統制・予防拘束などに至りやすく、結果的に民主主義を機能させなくして国益をも損なう危険があります…「警察は信じられる」というのは、おっしゃるとおりフィクションなのです。
(弱警察、監視強)は、警察に対する不信がベースになります。そして市民相互の監視もしない、ということは、「市民を信じる」かどうかで「理想社会には犯罪はない」と、「犯罪は多発するだろうが警察国家・監視社会よりはましだ、犯罪は交通事故同様社会のコストとして受け入れる」の二つの態度が考えられます…他にありうるでしょうか?あ、「皆が武装する」「ランダムに隠れ武装者がいる」も考えられますが、誰も賛成しないでしょう。
では(警察弱、監視強)は?市民によっても監視があるわけで、人権侵害には違いないです。でも警察は信用できない、犯罪もいやだ、かといって理想社会には犯罪がないとは信じられない、というならこれしかありません。
僕は個人的には、この「皆が皆を監視する」を技術で洗練させることにより、人権侵害を最小化することができるのではと思っています。
実例を思い浮かべることは出来ないのでしょうか? そうでなくとも教育関連の仕事をなさっているのなら、その気さえあればいくらでも容易に参照できるはずです。もちろん、飯田さんのように「直接に知っている学校」という個人的経験を根拠に反論することも出来ますが、それはあまり意味のあることとは言えません。
>tatu99さん
相変わらずの御節ですが、たとえば永年勤続で悪くなるというのが事実なら、高度成長期からバブル期に続くJapan as No.1 の時代はきっと今とは比べものにならない悪夢のような時代だったのでしょうね。
tatu99さんは落ちこぼれにされるだけではなく厳罰や体罰の対象にもされると思いますが、身分保障や好待遇を悪と考えるtatu99さんの論理なら、体罰に曝された方が「良く」なるのでしょうかね。まぁ、一貫性はとれておりますな。
>Chic Stoneさん
逆です。警察弱、監視強は最も歯止めの掛からない危険な状態です。それは共同体の主流派が、少しでも異なったタイプの人を排除しようとするヒステリックな魔女狩りの社会です。それよりは警察などの限定された人々にだけ権限を与えた方がまだ抑制が出来ています。
そもそも監視を前提としている所に疑問を感じます。監視を強めるも何も、凶悪犯罪は減少しているのですよ? 取り締まりを行う「権力」を信じるのではなく、自分の隣にいる人に疑いの目を向けるのを辞めること、隣人を信じることです。
>山名さん
山名さんのコメントを呼んで少しほっとしました。私の想定は山名さんの想定に近いのですが、なかなかどうして安易に監視社会を要望する声も根強いようです。他人を押さえ込もうという、力への渇望が強いのでしょうか・・・
冤罪や権力の濫用と言ったことはやはりあるでしょう。
だからそういったことは可能な限り制限しなくてはいけない…。
と思いがちですがそうとも言いきれないのです。
厳罰化、体罰の強化することで、治安・学校生活の安定化等の利点があります。
不当逮捕される危険性もあるし、同時に凶弾に倒れる危険性もあるわけです。
だからどの程度まで必要かというバランスが大事です。
問題は厳罰化、体罰をどの程度すればどの程度効果があるか?
というデータがほとんどない(発表されない)ということです。
メリット/デメリットを合わせた検討が必要です。
どうも賛成派反対派共にそういった総合的な判断をせずに
自分に都合のいいデータのみを参照しがちなので気をつけないといけないと思います。
(データで嘘とかねつ造してるわけではないところが逆にタチが悪いという(^^;;)
>実例を思い浮かべることは出来ないのでしょうか? そうでなくとも教育関連の仕事をなさっているのなら、その気さえあればいくらでも容易に参照できるはずです。
私が伺っているのは、「過去の例を参照出来る」とご自分で書かれているのに、その具体的な内容が文中で示されていないのは何故でしょうか、ということなのですが、その点はいかがでしょうか。
実例を思い浮かべることが出来ないのか、というご質問に関しては、「私は実例を知らないので、当然思い浮かべることも出来ません」とお答えする他ありません。
今エントリーのリンク先から飛んできました。
学校における体罰に関しては、同様に思うところがかねがねありました。
学校の先生は大学を出て教育現場に入り、その後は常にご自身よりも下の人間を相手に仕事をされておられるわけで、僭越ながら社会経験不足であられます。
ご自身の知識不足や性格的欠点等を生徒に指摘されると面白くないでしょうが、多くの教師はその指摘に対する羞恥心や憤りのような感情をコントロールすることなく生徒にぶつけておられました。
確かに、騒音や走り回るなどして授業を妨害するような生徒は邪魔だと感じましたが、一方で冷静に議論をしかける生徒を「口答え」するのが悪いとして殴るような22歳でメンタリティが停止しているような教師に体罰権を与えるような恐ろしいことはやめて欲しいと心から思います。
それは賛成ですね。
本当に悪い人のみに厳罰を処す、というのは不可能ですし、冤罪はたえないでしょう。
また、その厳罰自体が本人・そしてコミュニティーにとって果たして有益なものなのかという問題もあります。
ただ、それはあくまでも「厳しくすればいいというものではない」ということであって、
やはりある程度の配慮の元で、罰であったり監視であったりが必要なことも、ご理解いただけますよね。
死刑などについてはまた色々複雑な議論がまざってくるのでちょっとのけといて、
体罰に関して言えば、
私自身、今はおとなしい人間ですが、小学校の頃は授業中にしゃべったりと迷惑ながきんちょでした。
たまに注意されたりもしましたが、しかり方に剣幕が足りなかったのか、はたまた先生をなめていたのか、それが悪いことだとすら認識してませんでした。
しかしある日大好きでやさしかった女の先生から拳骨をくらいまして(笑)あれは痛かった。
こぶは出来ませんでしたけど。
それ以来、ああ、自分は駄目なことをしていたんだな、もうやらないようにしよう…という考えに変えることが出来ました。
口での注意でわかるのならそれでこしたことはないんですが、それでわからないようなら怪我しない程度、かつなめられない程度の体罰は必要です。
その「程度」をどうするか、というのは、もうその場その場で柔軟に対応していくしかないでしょうね。
まあ、それが問題になってるんですけど…
少なくとも、この教員は「いじめられる子」には「不適切な発言」を吐く一方でいじめる側には対応しなかったのです。 それでも学年主任になっています。 この教員は他の生徒にも「不適切」発言をしていましたから、「たまたまこの生徒だけの問題ではなく」彼の「教育技術」のうちだったのかもしれません。(あるいは、クラスで欲求不満のはけ口がぶつけられるピエロを作りガス抜きをして学級運営をするのが彼の作風だったのかもしれません。) 外部から見れば、トンデモでもそれで大多数の生徒にガスがたまらず「学級崩壊」などの問題が起こらなければ、そうした作風を拒否して学級崩壊などを起こしてしまう教員より往々にして評価が高いことすら有り得るでしょう。
http://news.livedoor.com/article/detail/2678761/
私は、この問題を起こした教員に刑事罰が与えられるべきだと主張したいのではありません。
ただ、被害者が自殺に追い込まれる一方で、この教員は「騒動」の最中に入院して姿を現さず、唯一のペナルティーとして「指導力不足教員」として研修が課せられたことだけが報じられました。(声明や所感のひとつでも教委や学校を通じてでも出すべきではなかったのか。) また、いじめたとされる生徒たちは被害者の自殺の後、別の子をいじめていると報道されました。 そして、書類送検となりましたが処罰はされませんでした。 反省しているという事のほかに毎日新聞報道によれば「学校関係者が誰も処罰されていないこととのバランスを取らざるを得なかったのだろう」という推測記事を載せていました。 それが当たっているのかはともかく、いじめ集団やこの教員によって死に追い込まれた生徒が救われなかったのは、体罰が認められていなかったからなのか? あるいは教員の権限が不足していたためなのか?
これこそ、殴るのに都合の良い人間(殴っても自分には報復被害が及ばないと思う人間)だけが殴られた例ではないでしょうか。
また、「私は自分が殴りやすい人間しか殴らない教員は見たことがない」というのは恐らく幸福なことです。 私はそのような狭義の物理的体罰についても自分が殴りやすい奴しか殴らない教員を複数(6・3・3)見かけました。