非国民通信

ノーモア・コイズミ

カラオケの帰りに考えたこと

2007-07-06 23:50:42 | 編集雑記・小ネタ

 今日はカラオケに行ってきました。一人で。一人でカラオケかよ、という意見もありそうですが、一人で行けば順番待ちなんて気にせず好きなだけ歌えますから、それでいいのです。そもそも私はメタルしか歌いませんし、私の友人にメタル好きはいません。そんなわけで一人でカラオケ、人目を気にせずエアギターとヘッドバンギングをしながら力の限り熱唱です。ふと廊下に目を向けると窓の向こうの通行人に怪訝な目を向けられていたりもしますが、気にしません。

 そんなわけで2時間ほど一人で熱唱し続けたので1週間の疲れも相まってへろへろです。エントリの内容もヘロヘロになりそうですが、悪しからずということで。

 さて前々から不満に思っていたのですが、豊富なレパートリーを持つがそのジャンルがひとまとめに括られている人と、レパートリーは少ないが複数のジャンルにまたがっている人、この両者が並べられたときに後者の方が高く評価されがちなのは何でかな、と。

 ドイツにF=ディースカウという歌手がいまして、何千曲もの膨大なレパートリーを持っていたわけですが、彼の持ち歌は全てクラシックという一つのジャンルに括られるものでした。一方でクラシックのほんの一欠片とポップの両方を演奏する人もいまして、これが時に変な持ち上げられ方をする場合もあるのです。ジャンルにとらわれず、幅広く音楽に向き合う姿勢が云々と、やけに好意的に評価されるわけですね。逆にレパートリーが一つのジャンルに収まっている場合は、枠にこだわった閉鎖的な態度という風に見なされることもありました。しかしなんでしょうね、ただ単にジャンルをまたいでいるかいないかの違いであって、往々にして一つのジャンルの中でやっている人の方がレパートリーの幅は広いようにも感じるのですが。

 そこで私の場合ですが、好きな音楽が概ね一つのジャンルに収まってしまうわけで、時に特定のジャンルにしか興味を示していないかのように受け取られることもあるわけです。しかしその人のレパートリーの広さよりもジャンルが領域を横断しているかどうかを重視するのであれば、そういう判断基準こそが特定のジャンルへの執着のような気もします。

 ちなみに最近はメタルばっかりですが、昔の私はクラシックをよく聞いていたわけでもあります。年をとったせいか音楽の好みも変わりまして、近年はメタル専門になりつつあるわけですが、若い頃は熱烈なクラシックのファンでした。どういう変化があったのでしょうね? 心にゆとりのあった若い頃は1曲に1時間以上かかる大曲にじっくりと向き合うことも出来たわけですが、今はそんな悠長なことはしていられない、なんて事情もあるでしょうか。

 例によってクラシックが好きだった頃も、特定のジャンルの音楽にしか興味を示していない、それは良くないことだと言われたことがあります。まぁ、17世紀の音楽も18世紀の音楽も19世紀の音楽も20世紀の音楽も21世紀の音楽も聴いているのに、それで特定のジャンルしか聞いていないみたいな言い方をされるのは甚だ心外でした。アンタよりは広い領域で音楽を聴いているよ、と言ってやりたくもなったものです。

 今でもたまにクラシックを聴くことはあります。別に嫌いになったわけではありませんので。ただ一人だけ、嫌いになった演奏家ならいるかもしれません。昔は好きだったけど、今は嫌いになった演奏家がいます。レナード・バーンスタインというアメリカの指揮者がそれでして、昔は偉大な音楽家として讃えていたわけですが、今の私であれば彼を厳しく批判せずにはいられません。

 もちろんバーンスタインは20世紀を代表する指揮者として偉大な存在には違いないのですが、彼の本性を示す二つの行為が嫌悪感を駆り立てます。一つは中東戦争が勃発し、イスラエルが勝利した後の祝賀演奏会に真っ先に駆けつけてタクトを振るったこと、もう一つはベルリンの壁が崩壊した後の祝賀演奏会にも真っ先に駆けつけタクトを振るったことです。

 言うまでもなくイスラエルの勝利はパレスチナにとっての悲劇であり、周辺アラブ諸国にとっての悲劇でした。これを祝うことはイスラエルの侵略を支持することであり、侵略された人々を踏みにじることもであります。そしてベルリンの壁が崩壊したとき、バーンスタインが演奏したのはベートーヴェンの交響曲第9番でした。その第9番の歌詞の一部、Freude(喜び)をFreiheit(自由)に差し替えて演奏したのです。吸収された東ドイツは不自由と断罪され、そして新自由主義が雪崩を打って押し寄せて参りました、と。

 バーンスタインという人は、少なくともクラシックの領域では人格者として崇められているわけです。まぁ、おそらくは善意の人だったのでしょう。ただその善意は幼稚な善意、あまりにも一面的な善意、異なる立場を慮れない善意だったように思われるのです。彼にとってイスラエルとアラブ諸国の対立も東と西の対立も、正義と悪の対立に見えていたのではないでしょうか。そして単純な正義と悪の対立として捉えていたからこそ、イスラエルの勝利、西側の勝利を躊躇うことなく祝うことが出来たわけです。パレスチナ及びアラブ諸国の敗北、東ドイツの敗北を思いやる姿勢が彼にあったとはとうてい思えないのです。そしてこのような、ただ自分の属する側の正義だけを一面的に信奉する人は仮に善意の人であったとしても、その信奉する正義が異なったときには牙をむいて襲いかかる残虐な人となるでしょう。

 そんなわけで、バーンスタインのような人を無邪気に人格者と崇めているようなクラシック界の風潮に少しだけ嫌気がさしたのも事実です。もっとも、メタルゴッドことロブ爺も「テロと戦う」米軍への支持を表明するなど、色々とがっかりさせてくれたりもするのですが。

 

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